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『新しいぶどう酒は新しい皮袋に』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ9:10-17

ここで「新しいぶどう酒」(マタイ9:17)とは、主イエスご自身のことです。主イエスというお方を入れる器、すなわち、私たちの内にどのように主を迎え入れるかということについて、今朝ご一緒に見てまいりましょう。

Ⅰ.主イエスは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られた

  • 主イエスは、当時、神の前に汚れた者、国を売る売国奴などと言われていた「取税人や罪人たち」と一緒に食事をしました。これは当時の宗教的指導者たちの常識を超えていることでしたので、パリサイ人たちやバプテスマのヨハネの弟子たちが、主イエスに疑問を投げかけたのは当然のことでした。
  • しかし、主イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:13)と語られました。主は、全ての人を神の救いの恵みに招くために呼び出してくださり、これらの人々と共に生きることを喜んでくださったのです。今朝、主自らが私たちの所に来てくださり、私たちを招いてくださったことにもう一度目を向け、感謝しましょう。

Ⅱ.新しいぶどう酒を新しい皮袋に

  • 主イエスの言動は、当時の宗教指導者たちには理解できないことでした。それは、彼らがこれまでの言い伝えや伝統に縛られたまま、主イエスを見ていたからです。主イエスは、古い着物の継ぎを真新しい布切れですると、着物は当て布で破れてしまうという譬えを語られ、救い主であるイエスを受け入れるためには、それにふさわしい器となるべきことを教えます。
  • パリサイ人たちは、自分たちこそ正しい者として、周りの人々をさばいていました。彼らは、自分たちが神の前に変えられる必要性を全く感じていませんでした。しかし、神が用意してくださった新しいぶどう酒、すなわち、主イエスによる救いを受けるためには、私たちは古い皮袋ではなく、新しい皮袋として造り変えられなければなりません
  • 私たちは、新しいぶどう酒である主イエス御自身を受けるにふさわしい皮袋として、日々、整えていただきましょう。主イエスを信じて歩む人生に、これまでの習慣、自分が固執していたことが邪魔になっていないでしょうか。主イエスによって、一部分だけではなく、すべてを新しくされたのですから、新しい器で主イエスを受け入れてまいりましょう。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(Ⅱコリント5:17

Ⅲ.断食できないほどの喜びの宴席

  • バプテスマのヨハネの弟子たちは、断食をしない主イエスと弟子たちに疑問を投げかけました。ローマ帝国の占領下のもと、国家的な危機状態に際して断食の祈りが必要と考えていた彼らにとって、主イエスの行動は理解しがたいことでした。
  • 主イエスは、ここで、彼らの断食を偽善だと非難してはおられません。ただ、彼らの思い違いを明らかにされています。主イエスは、「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう」(マタイ9:15)と譬えをもって語られ、花婿である主イエスが共にいるのにも関わらず、なぜまだ神がおられないかのごとく悲しんで断食をするのかと、逆に彼らに問われます。
  • 主は、すでに十字架によって私たちの救いを完成してくださり、私たちを主の喜びの祝宴に招いてくださいました。主イエスは、私たちの喜びそのものです。主イエスが私たちの内にいてくださることの恵みを感謝しましょう。主の喜びを受けるにふさわしい喜びの器としていただこうではありませんか。

結 び

私たちの歩みには、様々な試練があります。時には立ち上がれないほどの困難があるかもしれません。しかし、圧倒的な勝利者(ローマ8:35-37)である主イエスは、どのようなときにも私たちを婚礼の宴にもまさる喜びの食卓に招いてくだいます。私たちは、喜びの主を受け入れるにふさわしい新しい器と変えられた者です。主イエスという新しいぶどう酒を世に運ぶ器として、それぞれの場に遣わされてまいりましょう。

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