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『信仰によって義とされる』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ローマ4:1-12

パウロは、ローマ書3章で信仰義認の「義認」について述べてきました。4章では、「信仰」について、アブラハムという人を例にして教えています。今朝は、私たちにとって最も大切な信仰について、もう一度ご一緒に見てまいりましょう。

Ⅰ.アブラハムは神を信じて義とされた

  • アブラハムが信仰の父と言われたのは、行ないによってではなく信仰によって神に義なる者とされたからです。アブラハムが、父の故郷を離れて約束の地を目指して旅したのも(創12章)、ひとり息子イサクをささげるように神に命じられて従ったのも(創22章)、神の言葉を信じて従った結果の行動でした(ローマ4:3)。
  • 聖書が一貫して主張しているのは、神は、信仰を通して私たちに救いという恵みを与えてくださるということです。信じる、と言った時に、誰を、何を信じるかが問題です。見さかいなく何でも信じるような“信仰”は、実際は盲信、迷信と言っていいでしょう。アブラハムが信じたのは、全能の神、すなわち「死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)でした。私たちも、この全能の神を信じるときに、信仰によるアブラハムの子孫として祝福を受けるのです。

Ⅱ.不敬虔な者を義と認めてくださる神

  • すべての人間は、神の前に罪人であると聖書は教えています(ローマ3:10)。しかし、神は罪人を見捨てず、かえって救うために、ひとり子であるイエスをこの世に遣わされました。主イエスは、私たちの罪の支払うべき報酬である死を引き受けてくださいました(Ⅰテモテ2:6)。私たちに何の行いがなくても、十字架の贖いという神からの恵みを受け取るなら、神はその者たちを義なるものとして救ってくださいます。これが救いの福音です。なんと偉大な神の愛であり、恵みでしょうか(詩篇32:1-2)。
  • 私たちがまだ罪人であったときに、キリストは私たちのために死んでくださり、救の道を開いてくださいました(ローマ5:8)。もし多少でも私たちが行いによって救われるというのであるなら、私たちにも誇ることはあるでしょう。 しかし、救いは神からの一方的な恵みによって完成された神の業です。私たちが誇るのは、キリストのみです。救いの恵みを深く知る者ほど、主イエスを誇りとするようになります。神の恵みを覚え、心から神をほめたたえようではありませんか。

Ⅲ.信仰によって義と認められる

  • パウロは、神の民として選ばれたユダヤ民族にとって、神の民のしるしである割礼はどのような意味を持つのか論証します。アブラハムは、「割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。」(ローマ4:11)本来、割礼は救われるための必要条件ではなく、信仰によって義と認められたことのしるしです。しかし、ユダヤ人の長い歴史の中で、いつの間にか神への信仰よりも、割礼自体に重きを置くようになってしまいました。
  • 私たちも、信仰生活の歩みにおいて、ユダヤ人の誇っていた”割礼”にあたるものがありはしないでしょうか。信仰の本質的なことではなく、外側の枝葉のことのみを重要視し心を捕らわれないように、いつも聖霊によって信仰の目を開かせていただきましょう。「キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6

結 び

アブラハムは、その生涯において、ただ、全能の神を信じる信仰に生きました。彼は、イエス・キリストの復活を見もせず、聞いてもいなかったにも関わらず、「神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考え」(ヘブル11:19)たのです。主イエス・キリストの復活を知っている私たちはなおさら、「望みえないときに望みを抱いて信じた」(ローマ4:18)アブラハムの信仰に生きる者とされています。今朝もう一度、私たちの信じる神は、主イエスを死者の中からよみがえらせた全能の神であることを覚えましょう。

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