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『受難のしもべ』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 イザヤ53:1-12

はじめに

今日は、イースター(復活祭)前の「棕櫚の日曜日(パームサンデイ)」と言われる日で、この日から受難週となります。エルサレムに入城した主イエスを歓迎した人々は、同じ週の金曜日に、主を十字架にかけたのです。預言者イザヤは、この主イエスの十字架の苦難をその誕生の約750年前に、まるでキリストの十字架を見ていたかのように書き記しました。今朝は、このイザヤ53章から、苦難のしもべについて、十字架とは何かということを、ご一緒に見てまいりましょう。

Ⅰ.私たちの身代わりとなった苦難のしもべ

  • 神のしもべが受けた苦難は、私たちが受けるべきものでした(イザヤ53:5)。その苦難のしもべの姿は、主イエスそのものを示しています。主イエスの地上での歩みは、人が考えるような救い主の姿とはかけ離れたものでした(イザヤ53:2)。
  • 神のしもべの苦難の頂点は十字架でした。父なる神は、人の罪を赦すために、身代わりとしてひとり子である主イエスを死に渡されたのです。「木にかけられる者はすべてのろわれた者である」(ガラテヤ3:13申命記21:23)とあるように、主イエスが十字架にかけられたのは、神に捨てられた者のしるしです。
  • 主の十字架の死によって、多くの人々が救われました(イザヤ53:11)。神が、そのひとり子をも惜しまずに私たちの救いのために与えてくださったのです(ヨハネ3:16)。主イエスの十字架の苦しみは、私たちのためであったことをもう一度おぼえようではありませんか。

Ⅱ.苦難のしもべは死に勝利された

  • イザヤは、苦難のしもべが身代わりとして打たれて死ぬのは、「主のみこころであった」(イザヤ53:10)と言います。「主のみこころであった」とは、主の「喜びであった」とも訳せます。御子に苦難を負わせることがなぜ喜びなのでしょうか。それは、しもべの身代わりの死によって、多くの人々が救いを受ける道が開かれたからです。また、しもべの死はそれで終わりではなく、よみがえりという希望をもたらすからです。
  • 主イエスのよみがえりは、主を信じる者を死からよみがえらせるためのしるしです(Ⅰコリント15:20)。神は主イエスを信じるすべての者を、神の前に義なる者とし、永遠の救いを与えてくださいます。私たちは、この神の救いである主イエス・キリストを信じ受け入れてまいりましょう。

Ⅲ.主イエスにならい、神のしもべとして私たちは神に仕えよう

  • 主イエスは苦難のしもべとして、私たちと同じ人として生まれてくださり、十字架の死に至るまで父なる神のみこころに従われました。それゆえに、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました(ピリピ2:6-9)。私たちも主イエスに倣って、神のみ言葉に従い続け、神に喜ばれる歩みをしようではありませんか(Ⅰサムエル15:22)。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2
  • しもべは神に「そむいた人たちのためにとりなしをする」(イザヤ53:12)お方です。主イエスも、十字架上で「父よ。彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈られ、復活して天に返られた今は、神の右の座で大祭司として、私たちのためにとりなしをしてくださっています(ローマ8:34)。神のしもべとして、まだ主を知らない人たちのためにとりなしの祈りをしてまいりましょう。

結 論:

  • この棕櫚の日の礼拝において、私たちは主イエスの十字架の贖いによって救われ、神の子とされていることの大きな恵みに深く感謝してまいりましょう。
  • 苦難のしもべ、主イエスは、私たち人間の罪を赦し、罪の結果である死から解放してくださいました。ゆえに、私たちは主にあって期待し望みをもって日々歩んでいくことができます。主のしもべとしてみ言葉に従い、神と人に仕えて行く時、神の偉大な恵みと計画を体験するのです。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」(マルコ10:45
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