『主を見るために』
説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ヘブル12:1-3,14-24
はじめに
ヘブル人への手紙は、信仰の歩みを信仰のレースに譬えて、困難な中にいるクリスチャンたちに、信仰のレースを走り抜くようにと励まし、慰めの言葉を送りました。私たちにも、心をくじいて意気消沈させる困難や大きな災難が起こります。主はそのような時にも、主の愛と恵み、御霊の力をもって信仰のレースを走り抜くようにと励ましておられるのです。
Ⅰ.主イエスから目を離すな
- 私たちが信仰のレースを走り抜くために大事なことは、主イエスを見続けることです(ヘブル12:2)。しかし、しばしが私たちは、人生のさまざまな困難の中で、主イエスを見失ってしまうことがあります。
- 主イエスを見失うなうことのないために、「すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい」(12:14)と今朝のテキストの中では勧められています。
- ヘブル書の著者はエサウの例を挙げ、目に見えるこの世のものに心を奪われ、目に見えない神の祝福に心を注がずむしろ軽んじてしまったことの愚かさを示します(12:16-17)。私たちは目に見えるものにではなく、目に見えない神の恵み、主イエス・キリストが示してくださっている愛の祝福に生き、それを追い求めようではありませんか(Ⅱコリント4:18)。
Ⅱ.神の長子とされてい大いなる恵みを見よ
- 旧約聖書における礼拝は、神の聖さ故に民が恐れ近づくことのできないものでしたが、新約聖書時代の礼拝は、主イエスの贖いによるもので、私たちは、ばかることなく神に近づくことがゆるされています(ヘブル10:19)。特に、私たちは「天に登録されている長子たちの教会」(12:23)として、主を礼拝している者です。
- 長子というのは、神の祝福を受け継ぐ者のことです。この長子の権利を与えられた私たちは、この世の目に見えるもの、手で触れられるものに目を向けるのではなく、目には見えない神の霊的な祝福に与ろうではありませんか。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)
結 論
- 嵐に遭い恐れ怖じ惑った弟子たちに対して、主イエスは彼らのそばに近づいて、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」(マルコ6:50)と語られました。私たちにも今朝、主は同じみ言葉をもって語りかけてくださっていることを覚えましょう。
- 信仰のレースとは、目に見えない方を目に見えるように覚える歩みと言うことができます。私たちは、「イエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどる」(Ⅰペテロ1:8)ものとされていることを感謝しようではありませんか。「こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。」(12:28)