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『信仰のおとな』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ヨハネ9:13-38

はじめに

今年の1月10日は「成人の日」です。教会でも本日の礼拝の中で、成人を迎えた方々の祝福をお祈りいたします。今朝の礼拝説教題を「信仰のおとな」としました。聖書から、このことについてご一緒にみてまいります。

Ⅰ.信仰には成長過程が伴う

  • 生まれながら盲目だった人は、主イエスによって目を癒されました。しかし、周囲のユダヤ人たちは、癒しを喜ぶどころか、癒した主イエスに対する殺意を募らせてゆきます。彼らの冷ややかな態度と主イエスに対する敵意は、彼らこそが霊的に盲目な状態であることを示しています。
  • 目を開かれた人は逆に、主イエスに対する信仰を深めて行きます。この人は肉体の目が開かれただけではなく霊の目も開かれて、神を信じる信仰へと導かれます。目を癒された人の信仰の成長過程がここに示されています。
  • 私たちは神の救いという奇跡を体験しました。この奇跡によって神の救いを知る霊的な目を開かれ信仰に生きる者とされたのです。私たちに与えられた信仰は、最初は目立たない「からし種」のように小さなものですが、成長して行くと大きくなるのです(マルコ4:31-32)。

Ⅱ.信仰のおとなとなる

  • 両親は息子が見えるようになったことについて詰問されたとき、「あれはもうおとなです」と関わりをもちませんでした。それは当時、主イエスによって癒しが起こったと認めるなら、ユダヤ人の会堂から追われたからです(ヨハネ9:22)。
  • 男性は神に目を癒されたことで、当時の社会からだけではなく、親からさえも突き放される体験をしました。彼は「おとな」として、自分の言葉で信仰を言い表したのです。
  • 男性は主イエスを受け入れることによって、一度この世(社会や両親との肉的な繋がり)から分離されました。それは、神の国のものとしてこの世から分かたれ、自立した一個の人として神の命によって生きる者とされたことを意味します。「この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:13

Ⅲ.「信仰のおとな」が目指すのは、キリストの満ち満ちた身たけにまで達すること

  • 「おとな」と訳されている言葉は成人年齢に達していることのみならず、心、体のすべての面における成熟を表す言葉です。「信仰のおとな」は、全人格的に「キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」(エペソ4:13)ことを目指して成長を続けます。
  • 私たちを成長させてくださるのは神です。しかし、私たち自身も成長させていただくために、み言葉に従う従順な心が求められています。従順の模範は、イエス・キリストにこそ見られます(ピリピ2:6-8)。

結 論

  • 主イエスによって目を癒された男は、主イエスが救い主であることを確信し、当時の同胞たちの反対に流されることなく、彼の信仰を言い表しました。「信仰のおとな」は、自分の身に起こった神の恵みを知って、それを恐れることなく大胆に自分の言葉で言い表す人です。
  • 信仰が成熟して行くとき、教会や一人一人のクリスチャンにイエス・キリストの品性が満ち溢れるようになります。私たちは、「子どもではなくて…、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するため」(エペソ4:14-15)、「平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つこととを追い求め」(ローマ14:19)て行きましょう。
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