目を上げて畑を見なさい
はじめに
主イエスがスカルで一人の婦人と話している間に、食物を買いに行っていた弟子たちが帰ってきました。これまでの経緯を知らない弟子たちは、主イエスに「先生。召し上がってください。」(ヨハネ4:31)と食べ物を差し出しました。主は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)と答えられました。
Ⅰ.主イエスが言われる霊の食物とは
「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」(ヨハネ4:32)主はここで、肉体の糧とは違う食べ物にもてなされ、満ち足りて喜んでおられるということを弟子たちに語られたのです。その食べ物とは「私を遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、私の食物です」(ヨハネ4:34)とあるように、父なる神の御心を行うことでした。
父なる神の御心とは何でしょうか。それは、「失われたものを尋ね出して救うため」(ルカ19:10)であり、その結果「霊とまことによって礼拝」(ヨハネ4:24)する者たちが起こされることです。主イエスは、ユダヤ人とは絶交状態の、しかも一人の名もないサマリアの婦人に個人伝道をされ、彼女を救いに導かれました。主は激しい疲れと空腹をおぼえておられましたが、たった一人の魂と関わり、その魂が救いに導かれることに非常な満足をおぼえられたのです。
私たちも主イエスの心を御霊によって自らの心としていただくときに、一人の魂を追い求め、その魂が救いに導かれることに最も喜びと満足をおぼえるように変えられます。私たちの物理的な飢え乾き(生活上のあらゆる必要)が満たされることは大切であり、主はそれを豊かに満たしてくださるお方ですが、私たちが第一に求めることは魂の救いです。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)霊とまことをもって主を礼拝する一人の魂が生み出されるように、主に祈り、み言葉を宣べ伝え、主の霊の食物の恵みに与ろうではありませんか。
Ⅱ.主の畑は色づいて、刈り入れるばかりになっている。
主は、霊の食物で満たされるようにと、弟子たちを主の喜びの中に招かれました。「あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハネ4:35)。主イエスが言っておられる畑とは、神の畑のことです。人々が神を信じることが出来るように、主イエスご自身が一粒の種としてご自身を蒔かれたのです。それが主イエスの十字架の贖いです。父なる神は、主イエスを信じる者が信仰によって救われるという道を備えてくださいました。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ12:24)
主イエス・キリストが一粒の種となって十字架に死んでくださり、私たちの罪の赦しのための贖いを完成されました。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」(ローマ10:13)のです。私たちは、収穫の畑を霊の目をもって見なければなりません。私たちに与えられているのは、主の収穫の実を一緒に刈り取って、主と共に喜ぶ幸いです。忍耐をもって収穫を待ち望みつつ、時が良くても悪くても、一人の魂に向かってみ言葉を宣べ伝えましょう(Ⅱテモテ4:2)。私たちの周りを見回して目を上げてみましょう。その畑は主イエスが用意してくださった豊かな収穫を約束してくださった畑で、色づいて、刈り入れるばかりになっています。
結 び
主イエスは、この罪の世なる畑にご自身という命の種を蒔かれました。神の御心は「すべての人が救われて、真理を知るようになる」(Ⅰテモテ2:4)ことです。御子を信じる者が永遠の命を受けて救われ、救われた者が霊とまこととをもって神を礼拝することです。主イエスは「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」(マタイ9:37,38)といわれました。収穫は多いと主は言われたのです。魂の収穫のため、私たちはどこから始めたらよいのでしょうか。祈りです!収穫の主に働き人を起こしていただくよう祈ろうではありませんか。私たち自身が、祈りによって収穫の場へと押し出される働き人とさせていただこうではありませんか。