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神の偉大な力を知る

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ22:23-33

はじめに

マタイ福音書22章で、パリサイ人たちはローマ皇帝への納税問題で主イエスを陥れようとしました。その同じ日、サドカイ派の人々は自分たちと対立するパリサイ人たちが、主イエスの見事な答えに敗北したのを知って、今度は自分たちが「復活問題」について主イエスを試みたのです。

1.主イエスへの質問に潜む人間の罪

サドカイ人はパリサイ派の人々と違って、旧約聖書の律法であるモーセ五書以外は信じておらず「復活はない」と主張していました。彼らは、主イエスがパリサイ人たちと同じように「復活」を信じているということを知り、いかに復活を信じることが空しい愚かなことであるかを指摘するために主を試みる意味で質問をしました。

彼らの態度には、自分たちはユダヤ人の中でも指導的な立場にある祭司の階級で、貴族に属する者であるという自負がありました。しかし、主イエスは彼らのその思いの中に人の罪を見たのです。それは、「聖書も神の力」も信じないで、自分の思いや考えでしか神の国を理解しようとしない、神に対する頑なさからくるものでした。知識的には聖書を熟知していたサドカイ人でしたが、彼らは信仰によって主の言葉を受け入れるということについては全くの盲目でした。モーセ五書しか信じていないサドカイ人でも、信仰によって聖書を読むなら、見えてくるものがあったはずです。しかし彼らが求めていたことは、この世のことだけだったのです。

創世記には、主は無から有を創造される方であることが記されています(創世記1:1)。主は天地万物を創造し、人を造り命を与えてくださいました(創世記2:7)。「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」(ヘブル11:3)神を信じているはずのサドカイ人たちは、主の偉大な力を自分の物差しで閉じ込め、主が実際に生きておられる全能者であるということを見失っていたのです。

主の力ある業は、主を信じる者に豊かに表されます。主イエスは「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)といわれました。「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(Ⅰヨハネ5:5)主の大いなる力ある御業を信じようではありませんか。

2.サドカイ人に対する主イエスの答えから

サドカイ派の人々は、復活という事はないと主張しましたが、それを説明するために一つの問いを出しました。それは、この地上で7人の夫の妻となった女性が死んで、その後復活した時、7人のうち誰がその女性の夫となるのかというものです。その質問に対し主イエスは、復活後には今のこの世とは違う世界であることを教えます。「復活の時には、めとったり、とついだりすることはない。彼らは天にいる御使のようなものである」(マタイ22:30)。

主は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」(マタイ22:32)と語られました。私たちと共にいてくださる主は、生ける主です。御言葉を通して私たちの罪を赦し、命を与えて溢れ流れさせ、永遠の命をも与えてくださるお方です。主イエスは「わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と約束して下さいました。私たちは主イエスにあって、その大能の力によってキリストと同じからだに復活するという望みを持っているのです。この復活は、キリスト者の最も大いなる希望です。この復活の力は今、私たちのうちに働いているのです。「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」(エペソ1:19

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