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実を結び歩む

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ11:12-25

はじめに

本日の聖書箇所には、二つのことが記されています。ひとつは、「いちじくの木ののろい」、もうひとつは「宮きよめ」と呼ばれる記事です。これらの記事に示されている主イエスの私たちへの語りかけを見てまいります。

Ⅰ.枯れたいちじくの木から

いちじくは昔から、イスラエルを象徴する木とされていました。主は、葉はおい茂っていても実を結んでいないいちじくの木を、み言葉によって枯らしました(マルコ11:14)。これはイスラエルへの一つの警告です。イスラエルの首都であるエルサレムは、壮麗な神殿があり、外面的には熱心な宗教行事が行われているように見えました。しかし、その実体は、実のないいちじくの木のように、主への真実な信仰を失ったものでした。枯れたいちじくの木は、信仰のないエルサレムに対する主のさばきを表しています。主イエスはこの出来事を通して、弟子たちに、実を結ぶいちじくの木のように、神を真実に信じることを教えらました。主イエスを信じて疑わない信仰は、山をも動かす力(マルコ11:23)があるのです。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」(マルコ11:24)真の信仰は、生きて働き、必ず実を結ぶのです。私たちの生活には、ともすれば、主への信仰を疑わせるような困難や問題が押し寄せてきます。しかし、主イエスを疑わずに信じるなら、いかなる環境や状況をも越えた、偉大な主の御手の業を体験するのです。どんなところにあっても、主は私たちと共におられます。主がともにおられるなら、時が来たときに私たちは必ず実を結ぶのです(詩篇1:3)。

Ⅱ.宮きよめの出来事から

エルサレムの神殿の境内では、イスラエルの三大祭りの一つである過ぎ越しの祭りが賑やかに行われていました。その境内では、商人たちが、大勢の巡礼者たちにいけにえの動物を売ったり、両替を行っていました。神殿は祈りの家であり、聖なるところであるはずなのに、商人たちは強盗のように巡礼者たちから不当な利益を得る場所としていたのです(マルコ11:17)。主イエスはそこに、霊とまこととをもって神を礼拝することがないがしろにされているということをご覧になり、宮きよめを行われました(マルコ11:15-16)。宮の目的は本来、主を礼拝し、祈り、主との交わりをすることにあります。私たちクリスチャンは、主の十字架の血潮によって聖別され、御霊の宮とされました(Ⅰコリント6:19)。主は私たち信者一人一人の内に住んでおられ、そこで礼拝されることを願っておられます。私たちは祈りの家として生きるために、毎日、御霊に満たされ続ける必要があります。主がおられる祈りの家に、主の愛が宿り満ちあふれます。その主の愛は、隣人を赦すことへと私たちを導いてくださいます(マルコ11:25)。

結 び

主イエスは、季節に関わらずいちじくの木に実を結ぶことを求められました。主の民とされた私たちは、自分の力や努力によって救われたのでもなければ、自分の能力で主の業を行うのでもありません。私たちは、ただ一方的な恵みとあわれみによって救われ、主の御業を行うものとされたのです。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」(エペソ2:10)主は、私たちが実を結ぶようにと全てを用意し整えてくださいました。ですから、主は季節を問わずにいちじくの木に実を結ぶことを求められたのです。私たちが主イエスに全く信頼し、主の十字架の恵みのなかに根をおろすとき、豊かな実を結ぶのは当然の結果です。聖霊の宮とされた私たちは、日々の祈りの中で、いつも主を心に迎え、主を礼拝し、主との交わりを絶やすことなく歩み続けましょう。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。」(ヨハネ15:5

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