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愛のかたち

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 Ⅰヨハネ4:7-21

はじめに

「愛」は目で見ることが出来ない。計ることも、その大きさや重さ、その尊さを他と比べることも出来ない。また、触って確認すること出来ない。
 しかし確かに愛はある。 私たちの目には見ることも触ることも出来ない「本当の愛」を知る唯一の方法を私たちは知っている。それこそがイエス・キリストの十字架である。 しかし、イエス・キリストの十字架で示された愛は、私たちが信じて受け入れたらそれで完成ではない。神は愛である。私たちが神の愛を受け、愛に生きる時、神は私たちを通して愛を「かたち」に表すことを求めておられる。目に見ること、触って確認することのできない『愛』ではあるが、私たちが赦しあい仕え合い、愛し合うことによって、この素晴らしい『愛のかたち』を世に示すことを得させてくださるのだ

1、 神に愛されている事実を認める(イエス・キリストの十字架を知る)

聖書は神主体の愛を私たちに教え、私たちがまず神に愛されている事実に目をとめるべきであることを私たちに教えている。愛の主体を自分と考えた場合、自分が他者に愛を与えることばかりに目を奪われてしまう。しかし本当の愛はまず「神に愛されている」自分を見つめ、知ることから始まる。
 『愛』の主体は神であり、私たちの愛はこの大きな愛の幹から出てくる小さな枝に過ぎない。
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」Ⅰヨハネ4:9-10 とある通りである。 しかも神の愛は、神に反逆し、あるいは無視をし、自分しか愛さないという『罪』の現実の中にいた私たちに注がれたこと事実を思い起こす時、主がどれほどあなたを愛しているか認めざるをえないのではないだろうか。
 あなたは神に愛されている。神の愛は今この時も、注がれている事実をもう一度確認する時としよう。

2、 互いに愛し合う者となる(神の愛が全うされる)

神の愛は、「私たちの罪のために、なだめの供え物」Ⅰヨハネ4:10となられた自己犠牲の愛である。この愛の泉から流れ出る愛を汲むことをしなければ、たとえどんなに「互いに赦しあい助け合い、愛し合おう」と言われても実行出来ないどころか、耳にも入ってくることはないだろう。しかし、あなたが本当に神の愛の泉から日々生ける水を汲んでいるのであれば、神への確信に満ちた大胆な信仰が与えられるだけではなく、主にある兄弟姉妹に対する愛を生み出す者とされるのである。
 「私たちが神のうちにおり」「神も私たちのうちにおられる」という相互関係は、ぶどうの木とその枝の関係(ヨハネ15:4-6)であり、私たちの心に聖霊が住んでくださっているという証である。 神を愛すること、信じることの唯一の方法は神の内にとどまることであり、神が内住してくださることであるこの有機的関係は御霊の働きであり、愛され愛することへと広がって行くのである。 愛は自分主体ではなく、受ける者となってはじめて愛することの出来る『相互の愛』なのだ。

結論

神は罪人の私たちを愛してくださった。その深い犠牲の愛を私たちは受けている。この愛の大きさを受けたのであれば、神が私たちに無理難題を突きつけるようなお方ではないということも知ることが出来る。なぜなら、愛なる神があなたの内に住み、兄弟姉妹を愛する力をも与えられているからである。そして、このことこそが、見るこの出来ない『主の愛』を世に証し神の愛がここにある!と宣言していくことなのだ。『愛のかたち』は私たちキリスト者のみが示していくことができる真実の証である。
「神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。」Ⅰヨハネ4:21
「愛する」ことは単なる提案やお勧めではない。絶対的な神からの命令であり、確かな約束なのだから。

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