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小さな信仰、偉大なる御業

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ルツ記1:16-17

「さばきつかさが治めていたころ」という文で始まるルツ記は、士師記が扱っている不信仰と無秩序の時代と同じとは思えないほど、主が登場する人々に愛の御手をもって働かれていることを見ることが出来ます。今朝のテキストを通して、変わることのない主が、さまざまな困難や問題に悩む今の私たちにも、その愛の御手をもって親しく語りかけ、主の恵みと喜びの中に導いてくださることを見てまいりましょう。

Ⅰ.因果応報からの解放

ナオミの人生は苦難続きでした。故郷のベツレヘム地方に起こった飢饉のため、異郷の地モアブへ夫と移住したのですが、そこでナオミは夫と二人の息子に先立たれます。人生には、しばしば人の考えでは理解できないことが起こります。神に選ばれた選民であるナオミ一家もその例外ではありませんでした。人は、困難や不幸に遭うとき、人の知恵や経験などを駆使してそれに対処し、あるいはその原因を知ろうとします。原因を定めるために、運命であるとか因果応報であるとか、何とか納得のいくようなことを考えたりもします。ナオミは自分の身に起きた苦難について、「全能者が私をひどい苦しみに会わせた」(ルツ記1:20)と言いました。しかし、神はナオミの人生にご計画を持っておられました。

主イエスはこのような事柄について、「神のわざがこの人に現われるためです」(ヨハネ9:3)と答えられ、絶望や諦めのただ中にある者たちを、神の偉大な御業の働きへと招いてくださいます。ですから、キリスト者はどのような困難な中にあっても、主の御手があることを覚えて主の御業を待ち望むことができるのです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28

Ⅱナオミとルツの信仰

ナオミと嫁たちの前にある将来は、人間的には全く望みはありませんでした(ルツ記1:11-13)。異邦の地で生きていけるはずのないナオミにとって、残された道は自分の故郷である神の約束の地ベツレヘムに帰ることでした。ナオミはふたりの嫁に、それぞれ自分の母の家へ帰ることを勧めます(ルツ記1:8-9)。しかし、ルツはナオミにすがりつき「あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(ルツ記1:16-17)とナオミに従うのです。ルツがしゅうとめに従ってモアブの地を離れたのは、人間的な自己犠牲からではなく、ナオミ一家との生活の中でイスラエルの生ける神への信仰が与えられたからに他なりません。二人は全てを失ったかに見えましたが、望みがない状態の中でも、主に従う信仰は失わなかったのです。その後の物語を読むとき、私たちはナオミとルツに与えられた主の大きな祝福を見ますが、この時点では二人は主の恵みを知る由もありませんでした。しかし、先が見えない状況の中で、二人は主に信頼したのです。ルツの「あなたの神は私の神」という信仰による告白を、主は無駄に地に落とされませんでした。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6

Ⅲ.小さな信仰、大いなる御業

ナオミに出来たことは、嫁ルツと共に信仰によって故郷ベツレヘムに帰ることだけでした。ルツに出来たことは、ナオミに従い異国の地ベツレヘムで落ち穂拾いをして生活することだけでした。彼女たちができたことは、全く目立たない、人の目には少しも留められない些細なことです。しかし、これは彼らにとって、小さくはあっても信仰の歩みの始まりでした。彼らの上には、すでに主の救いの御手が働いていたのです。

私たちも、どんな状況の中にあっても、主を信じる信仰を働かせてまいりましょう。どんなに小さく、できることがほんの些細なことのように思えても、主への信仰は主の御手を動かします。その時に私たちは、人知を遙かに越えた偉大な主の業を見ることができるのです。信仰による小さな一歩から始めようではありませんか。主の前に、出来ることを精一杯忠実に、そして誠実に行おうではありませんか。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」(ルカ19:17

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