主の招きを受け入れよ
今朝のテキストは、マタイ福音書第21章の「二人の息子の譬え」(マタイ21:28-32)と「ぶどう園と農夫の譬え」(マタイ21:33-45)に続く第三番目の「王の披露宴の譬え」です。いずれも、救い主イエスの招きを拒絶したことで、選民に与えられるはずであった神の国が、信仰による新しい契約の民としてのイスラエルに与えられることが示されています。
Ⅰ.主イエスの問いかけ
私たちは主を信じようとするとき、主に様々な質問を投げかけます。主は生きておられる方ですから、私たちの質問に対して答えを示してくださいます。しかし、逆に主イエスが私たちに質問をされることがあります。その質問にどのように応えるかによって、私たちの主に対する信仰姿勢が現れるのです。マタイ福音書第21章に示されている主イエスの譬えには、聞く人々、特に祭司長、パリサイ人、また民の長老たちに対しての鋭い問いかけがあります(マタイ21:31,40)。主イエスの譬えによる問いかけにより、彼らはその罪を指摘されたにもかかわらず、主に悔い改めをするどころか、かえってイエスを捕らえようとして、その心をますます頑なにしたのです。主の問いかけは、しばしば私たちの急所を付くものですが、その問いかけに、私たちがどのように応えるかを主は見ておられます。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4:7)私たちは幼子のような柔らかな心をもって、主の問いかけをキャッチしましょう。
Ⅱ.主は全ての人を招いておられる
主の福音とは、神が私たちを罪の中から救ってくださるという喜びの知らせです。主は最初の人アダムが罪を犯して以来、常に人間を救いへと招き続けておられます。しかし、人は主の救いの招きを受けないどころか、拒否したのです。主イエスはこのことを譬えをもって示されました。ここには、栄えある王の招待を拒み、自分自身の目先のことを優先した人々のことが記されています。王子の婚宴の招きにつまらない理由で応じないとは、なんと愚かな態度でしょうか。しかし、大切な人間の永遠の命に関することを見失い、目先のことがらだけに捕らわれて主イエスの救いの招きを拒む態度は、王の招待に応えない人々と同様なのです。
主イエスは、王子の婚礼が整ったことを伝えるために遣わされた使いです。主は、私たちと全く同じ人となられて、神の救いを人々に与えるためにこの世に来てくださったのです。主は救いの喜びに来るようにと、私たちの名を呼んで招待してくださいました。主は私たちを永遠の恵みと祝福の中に招いておられます。主の招きを受けたなら、その招きに応えて主を信じ、従い、神の御国の建設のために加わる者となりましょう。「今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)
Ⅲ.主が備えておられる義の衣を着よ
王の丁寧な招きを、反逆と悪意をもって拒絶した招待客に代わって、王は新しい招待者を集めます。王の使いは大通りに出て行き、王に言われたとおりに出会った人々をみな宴会に招いたのです。これは、主がユダヤ人、異邦人を問わず、また「良い人でも悪い人でも」(マタイ22:10)どんな人でも主の救いに招いておられ、だれにでも等しく主の救いの恵みを受ける機会を与えておられるということです。
しかし、譬えでは、この時招かれた客の中に、礼服を着ていない者がいました。イスラエルには、招待した客を婚宴の席に招く時は、招いた者がその婚礼に相応しい礼服を用意する習慣がありました。ですから、礼服を着用しないということは、王の招待を拒んだことになり、その者は外の暗闇に放り出されてしまったのです(マタイ22:13)。この礼服は、信仰によって与えられるキリストの義の衣です(ガラテヤ3:27)。主イエスは、私たちが義の衣を着るようにとご自身を十字架の上に捧げてくださったのです。主は私たちの救いのために、必要ないっさいのものを備えてくださいました。私たちは主イエスの救いのわざによって与えられた義の衣を身に着け、主との喜びの祝宴に加わろうではありませんか。主の招きに応え、救いの喜びと感謝に満たされ、また神の栄光の働きのために、主の奉仕に加わって行こうではありませんか。