復活のキリスト
キリストの復活は聖書の基本的真理である。「キリスト教は宗教ではなく、救いであり、教えではなく、いのちである」と言われるが、その理由はまさにキリストの復活にある。パウロは「キリストの復活がなければ、信仰も宣教もむなしい」と言っている。そして福音を要約してキリストの死と葬り、復活、現われの三点を挙げている。(Ⅰコリント15:1-8)死と葬り、および復活は客観的事実であり、現われは主観的経験である。この客観的事実を主観的経験とするときに救いとなる。聖書は「イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるためによみがえられた」と言っている。信仰によってキリストの死と復活を経験すると、過去、現在、未来のいわゆる、三次元の世界に生かされている私たちに与えられている救いもまた、三次元に及ぶものである。
Ⅰ 私たちの過去に対して
キリストの死は私たちの過去のすべてを葬り去ってくださった。十字架の上で「完了した(払うべき値を払いつくしたとの意味)」と叫ばれたイエスによって、私たちの過去は解決されたのである。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」 「キリスト・イエスの死につくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです」 「死んでしまったものは、罪から解放されているのです」とパウロは言っている。
Ⅱ 私たちの現在に対して
キリストがよみがえられたことによって、主はわれらの牧者として、ともに歩んでくださり、つねに勝利へと導いてくださる。ダビデはたとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから」と歌っている。羊飼いである主は私たちを緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴ってくださる。マーガレット・パワーズの「足あと」にあるように、困難にあったときには抱いて歩いてくださる主である。エマオの弟子たちのように私たちの目がさえぎられて、ともにおられる主が見えないようないことにならないことを願うものである。
Ⅲ 私たちの未来に対して
キリストの復活は私たちの死に対して希望と保証を与えるものである。パウロは「今やキリストは、眠ったものの初穂(リビング聖書では『キリストは復活第一号』となられた)」と語っている。主にある者の未来はこのように保証されたものであるので、死は御国への入口であり、 そこに永遠の住まいが備えられているのである。「あなた方は心を騒がしてはいけなせん。神を信じ、わたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まい(別訳ではマンション)がたくさんあります」と主は言われた。
このようにキリストの死と復活は私たちの人生における過去、現在、未来の保証となったのである。ハレルヤ! 私たちは復活の証人である。そこで何時でも、何処でも誰にでも、今も生きておられるキリストを伝える使命が与えられている。弟子たちは、いのちがけで主の復活を証しした。彼らは禁じられても、黙っていることができず、語り続けたのである。使徒4:20 使徒の働きの宣教の中心は主の復活であり、そこに神の恵みが注がれているのである。私たちもいのちをかけて、主の証人となることを祈るものである。