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勝利の入場

説教:山城晴夫 牧師
聖書箇所 マルコ11:1-11

今日から受難週に入る。最初の日である今日は主がロバに乗ってエルサレムに入られた日である。主は「わたしは、今日もあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです」と言われたが、まさにそのときが来た。この日は「勝利の入城」と言われるように、棕櫚の枝葉を手に、「ホサナ!ホサナ!主の名によって来られる方に、祝福あれ!」と叫ぶ人々の大歓迎を受けられたのである。実は勝利は十字架にあったのである。キリストは十字架によって世に、罪に、死に、よみに対する勝利者となられるためにエルサレムに来られた。

しかも、勝利者として、ちょうど、凱旋門を通って群集の歓声を浴びながら迎えられる国民的な英雄ナポレオンのように立派な馬に乗って堂々とエルサレムに入られたのではなく、子ロバに乗って来られたのである。ゼカリヤは「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ロバに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」と預言した。(ゼカリヤ9:9)ロバはイスラエルではあまり、珍重される家畜ではなかった。かつて預言者エレミヤのエホヤキム王の死を預言して語ったことばによると、王が死んでも、だれも悲しむものはいないという表現をロバの死を引き合いに出して語っている。(エレミヤ22:18,19)このように役に立たないと言われていたロバを主は用いられた。イエスの弟子たちの大半はガリラヤ湖の漁師たちであった。パウロは、コリント人たちに「神は知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かなものを選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました」と言っている。(Ⅰコリント1:26-29)預言者イザヤが「切り出された岩、掘り出された穴を見よ」と言っているように、自分が何者かを考えるとき、地のちりに過ぎない者であることと、こんな者を召してくださった神のあわれみとを思わずにいられない。しかし、ロバが主に用いられるためには三つ条件がある

Ⅰ. 聖め Kiyome

聖書によればロバは汚れた動物であり、主のものとなるためには、羊で贖わなければならなかった。(出エジプト13:13)私たちが主に用いられるためには きよめが必要である。そしてきよめは小羊なるキリストの血によらなければならない。パウロは「だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです」(Ⅱテモテ2:21)とテモテに勧めている。

Ⅱ. 解放 Kaihoh

テキストの中には「ほどいて」ということばが3回出てくる。ほどくとは、つながれていたもの、結ばれていたものを解くことである。「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪を捨てて」とヘブル12:1に勧められているように、私たちを取り巻く古い生活、習慣や、さまざまなしがらみを断ち切らなければ主に用いられることは出来ない。知識や経験、権威や能力に依存して聖霊の導きを求めない生き方から解放されなければ、主に用いられることはない。聖書は私たちの姿を奴隷として描いている。(罪 ローマ6:17、欲と快楽 テトス3:3、恐れ へブル2:15、滅び Ⅱペテロ2:19)キリストはこれらから自由を与えるために私たちを解放してくださったのである。

Ⅲ. 献身 Kenshin

召命と献身とは表裏一体である。神が私たちを召され、私たちがその召しに応答することによって、召しは全うされる。この召しに応答する行為が献身である。ガリラヤ湖の漁師たちがイエスの招きに応じて舟も網も捨てて従ったように、自分を捨てて主の召し、主の招きに応える者を主は用いられるのである。神はすべてのクリスチャンを召しておられ、私たちが置かれたところにおいて主に従い、主に仕えることによって私たちの献身が表明されるのである。パウロはローマ12:1,2で私たちの献身のあり方について「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい」と勧めている。

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