神の摂理に生きる
神の摂理とは、「神の目的を達成するために出来事を導き、方向づける神の活動である」私たちは神の摂理に生きるとき、どんな逆境の中にも希望を持って生きることが出来る。
神はどんなことの中にあっても働かれる
11人の兄をもつヨセフは、父に誰よりも愛されていた。兄たちは父が兄弟たちのだれよりもヨセフを愛しているのを見て、ヨセフを憎み、ヨセフを殺していなくなることを望んだ。この願いは、神が自ら引き起こしたものではなかった。しかし、ヨセフは奴隷として売られた。エジプトへ連れて行かれたヨセフは、仕えていたポティファルの妻のたくらみや嘘によって監獄に入れられた。しかし、最終的にはヨセフは宰相となった。これらのことから、神の御手はいかなる時にも働いておられることがわかる。神はヨセフを見捨てられたのではなく、いつもともにおられ、働いておられた。
神は明確な目的のために働かれる
奴隷として売られたヨセフは、結果としてエジプトの宰相となる。若くてヨセフが宰相となったことで、神の目的が達成されたというわけではない。ヨセフが宰相になったことにより、穀物が蓄えられ、そのことによってエジプトの民が救われるだけでなく、ヨセフ自身の家族、また神の民のイスラエルが救われることになった。 ヨセフは兄たちによって自分が奴隷として売られたとき、また、せっかく忠実に仕えていたにも関わらず、主人の妻のたくらみによって監獄に入れられたときは、これらのことを通して、家族をまたイスラエルの民を大飢饉から救うことになろうとは考えてもいなかった。しかし、長い月日がたち、神の目的を知った。私たちも時として受け入れがたい困難に、なぜ?どうして?何のために?と目的がわからずに苦しむことはある。しかし、私たち一人ひとりの人生は目的があり、神の手の中にあって導かれている。
「私中心」ではなく「神中心」に
神の摂理に生きるためには、「私中心」から「神中心」という考え方をする必要がある。ヨセフは、若くして偉くなることにこだわっていたら、自分が中心である。45章5節、7節をみると、宰相になる事が神の計画の目的ではない。主語は「神」である。「私は」ではなく、「神は遣わしてくださった。」「神はお遣わしになりました。」ヨセフの歩みは、神中心の考え方である。 神中心の考え方は、何でも自分も思い通り、願った通りに行っているときだけではない。むしろ思っていた通りにはならない日常の歩みの中でこそ、この神中心の物の考え方が求められている。
詩「刺繍」 作者不明
どんなすばらしい作品であっても裏から見ると模様がわかりません。
裏から見てこの色がどうしてここにひっぱってあるのか。
あの色の糸がなんのためにそこにあるのか見当がつきません。
いろいろな糸が無意味にさえ見えます。
でも、表から見ると、いっぺんにわかります。
このきれいな花びらの模様ができるためにあの糸があそこにあったのか。
この葉っぱを作るためあの糸が必要だったのか、と驚くのです。
私たちの人生も同じです。
今は裏からしか見えませんどうしてこのできごとがあったのか。
なぜあのつらい思いをしなければならなかったのか。
なんのためにあの苦しみ、病気や生涯が与えられたのか。
多くの場合、今はわかりません。
今は裏しか見えないため、「なぜ?」という疑問に答えられないことがたくさんあります。
天の御国へ行った時、はじめて自分の人生の刺繍を表から見るようになるのです。
その時は、神様のすばらしいご計画や目的を知り、ただ驚きと喜びのみです。