力の源は何か
エリコにザアカイ(きよしの意味)は取税人のかしらであった。エリコは古い町で、神によって呪いの先刻を受けた町であったが、イエスはそこに来られた。エリコに来られたイエスはザアカイの家に入られ、さらにザアカイの心に入られた。ザアカイは取税人のかしらで、金持ちであった。「だれからでも私がだまし取った物は四倍にして返します」という彼の告白から、彼は不正の富を蓄えていたものと思われる。現に当時の取税人は人々から、嫌われ、罪人呼ばわりされていた。イエスが彼に「きょう、救いがこの家に来ました」と言われているように、ザアカイは失われた者であったがイエスに捜し出され、救われた。
旧約聖書の中に失われていたサウル王の孫のメフィボシェテ(別名メビル・バアル)がダビデ王の好意によって捜し出され、王宮に召されて王の恩寵にあずかっているという記事を読む。(Ⅱサムエル9:1-13)神は今も、このように失われた人を捜し出して、救いを与えようとしておられる。
さて、ザアカイはイエスがエリコの町に来られたことを聞き、イエスを見ようと思って街道に出た。物質的には豊かであり、また、地位をも得ていた彼であったが、心は貧しく、飢え渇いて何かを求め、何かにすがりたいと思っていたに違いない。彼は背が低かったために、人の前に出ようとするが群集は彼の邪魔をしたのだろうか、人垣の前に出ることもできなかった。それでも彼は諦めず、そばにあったいちじく桑の木に登り、上からイエスを見ようとした。イエスは木の下までこられると、家を見て「ザアカイ、降りてきなさい。」と言われ、さらに驚いたことに「今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われたことである。ザアカイは名前も、何処にいるかも、何もかも知っておられたイエスを大喜びで家に迎えた。それを見て人々は「あの方は罪人のところへ行って、客となられた」とつぶやいた。
イエスを知るためには木から降りてこなければならなかったことに注目しよう。ザアカイが登ったいちじく桑の枝とは既成概念を指している。すなわち、先入観、知識、経験、習慣、常識、既成概念、固定概念、組織、集団、などである。私たちは今日も、これらを通してイエスを見ようとしてはいないだろうか?
かつて、ダビデが巨人ゴリヤテに向かっていこうとしたとき、サウル王は自分のよろいかぶとを着せ、剣を与えているが、これは王の固定観念から出たものである。しかし、ダビデはそれらを脱ぎ捨て、杖と石投げを持って巨人に向かっている。大切なことは木から降りてくることである。
主と顔と顔を合わせて力くらべをしたヤコブは肉の人から霊の(イスラエル)に変えられた。ザアカイは「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は四倍にして返します」と言っているように彼は貪欲の人から与える人に変えられたのである。
木の上からイエスを見ようとするのではなく、木から降りてきてイエスの前に出て、顔と顔とを向き合わせ、心を開いてみことばを聴くとき、そこに変化が起こるのである。先入観や既成概念を捨てて主の前に出よう。