水平思考と垂直思考
ふたりの人が祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人(宗教家)で、ひとりは取税人であった。ここにはふたりの祈りが比べられている。パリサイ人は「私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受ける者はみな、その十分の一をささげています」と自分を義とする祈りをささげている。一方、取税人は顔を上げようともしないで「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と祈っている。
ここに水平志向の人間と垂直志向の人間が見られる。水平志向とは隣の人と自分とを比べようとするもので垂直志向とは人ではなく神と自分の関係を求めるものであって、換言すれば水平志向は相対志向であり、垂直志向は絶対志向のことである。人間は隣の人が気になる。「隣の芝生は青い」ということばのように同じものでも隣のものは美しく見えるし、大きく見える。そのようなことからコンプレックスを憶えたりし易いものである。ルカは同じ福音書の中で主がベタニヤのマルタとマリヤの家に来られたときのことを記録しているが、そこでも姉マルタの水平志向と妹マリヤの垂直志向について記している。やはり、マルタは妹を見て不平を抱いている。妹が自分だけに働かせて、手伝おうとしなかったからである。
水平志向から垂直志向に変えられたアサフの経験をうたっているのが詩篇73篇である。彼は誇り高ぶる悪人が栄えているのに目を奪われ、彼らをねたましく思っていた。「悪人の死には苦痛がなく、彼らのからだはあぶらぎっている。苦労もなく、高慢が彼らの首飾りとなり、暴虐の着物をおおい、彼らがあざけり、悪意をもって語り、高い所からしいたげを告げるのを見た。そして悪人は、いつまでも安らかで、富を増している」(詩篇73:1-12)と言っている。しかし、これらは外面的な繁栄に過ぎず、内面的な祝福ではない。この詩篇には人を見るのではなく、神を仰ぐようになったアサフ、すなわち、垂直志向に変えられたアサフの証と告白がうたわれている。
- 彼らの繁栄の結末を見た。「彼らは、またたくまに滅ぼされ、突然の恐怖で滅ぼし尽くされましょう」と言っている。(詩篇73:17-20)
- 自分の姿を見た。「私は愚かで、わきまえもなく、獣のようでした」と自分の姿に気づいている。(詩篇73:22)
- 神の御手を確信した。「あなたは私の右の手をしっかりと捕まえられました」と確信している。(詩篇73:22,23)
- 最高の望みは神であることを明言している。「天においても、地においてもあなたのほかに私は誰をも望みません」という告白をしている。(詩篇73:25)
- 神が永遠のゆずりであることを確証している。「神はとこしえに私の心の岩、私の分の土地です」という信仰を見る。(詩篇73:26)
5タラントを預けられたしもべも、2タラントを預けられたしもべも、1タラントを預けられたしもべもいる。しかし、5タラントのしもべも2タラントのしもべも、同じように主人から「よくやった。よい忠実なしもべよ」と言われている。評価の対象は預けられた数や量ではなく、彼らの働きである。人をうらやむのでもなく、自分をいやしめるのでもなく、神を見て忠実に働こうではないか。
ともすれば「私はこのパリサイ人のようでないことを感謝します」という祈りをささげてはいないだろうか?つねに取税人のような祈りを学びたいものである。