キリストにある成人
1月11日は「成人の日」として20歳を迎えた若者たちを祝福する国民の祝日となっている。聖書の中の「成人」もしくは「20歳以上の者」ということばが使われているところを読むと、人生におけるひとつの節目を表している。そして本当の成人とは「正しい選択のできる人」をいうことがわかる。
イスラエルの民の荒野における人口調査が民数記に記されているが、そこでは三つの条件が見られる。① 部族ごと(帰属意識)② 20歳以上(責任)③ 軍務につくことのできる者(兵士)である。
帰属について
私たちは神の国の民である。パウロは「私たちの国籍は天にある」ピリピ3:20 とい言っている。キリストは弟子たちのために「わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないのです」と祈っておられる。ヨハネ7:14
責任について
未成年のときには保護者のもとにあり、直接、責任を問われることがないが、20歳になると社会的にも、個人の責任が求められるようになる。イエスに目を開かれ、見えるようになった盲人の両親は「息子はもうおとなですから、あれに聞いてください」とユダヤ人たちに答えている。ヨハネ9:21,23(ローマ14:12を参照)
兵士について
ギデオンの300人の選ばれた兵士たちのように、つねに敵前にいることを自覚する必要がある。士師記7:7 私たちの敵は、サタンであり、罪であり、世であり、肉であるが、パウロはそのために神の武具を身につけるように勧めている。エペソ6:10-18 そのときに私たちはつねに勝利が約束されているのである。ヨハネ16:33、ローマ8:37、Ⅰヨハネ5:4
ヘブル人への手紙はモーセが成人したときのこと記している。彼はエジプトの王位継承者であるにもかかわらず、それを拒んで神の民とともに苦しむことを選んだ。キリストのために受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と考えた。彼は見える王よりも見えない王を見ていたのである。選択にはYESかNOか?とAかBか?がある。NOといえる勇気を持つ人こそ、成人と言えるし、利害、損得を無視し、一時的な見えるものではなく永遠の見えないものを追求する人が成人である。(創世記13:10,11を参照)
パウロが百人隊長ユリアスによってローマへ護送されるときに、彼らはパウロの忠告を拒んで選択を誤ったためにユーラクロンという暴風に巻き込まれて難破した。 使徒27:9-15 彼らの誤った選択とは
- パウロの忠告よりも航海士や船長のことばに従った。すなわち、神のことばよりも、人間の「経験」に頼ったこと。
- 対岸の港のほうが越冬に適していたので出航した。すなわち、「条件」を比較したこと。
- 大多数の人の意見がここを出帆することだったので、それに賛成した。すなわち、「多数意見」に従って行動したこと。
- おりから穏やかな南風が吹いてきたので、このときとばかり、錨を上げて航行した。すなわち、「状況」に惑わされたこと。
キリストにある成人として、つねに正しい選択が出来る人となろう。