『主の使命に立ち返る』
はじめに
士師記に登場するサムソンは、私たちが通常「信仰者」として思い描く型からは、ずいぶん「はみ出た人」と言わざるを得ません。本日は、彼を通してイスラエルに現わされた主の力と真実を見て参りましょう。
1)弱さや欠点にもかかわらず現わされる神の力
「その子の頭にかみそりを当ててはならない。その子は…神に献げられたナジル人だから。彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める」(13:5)。サムソンは、イスラエルをペリシテ人から救い出す者(士師)として選ばれ、誕生しました。「ナジル人」(今でいう献身者)でしたが、士師記14~16章を通して、彼は、働きと品性のバランスがまったく取れていない、ということを見ます。一連の欠点にもかかわらず、「主の霊が激しく臨み」(14:6、14:19、15:14)、神の力がサムソンを通して現わされ、敵に勝利しました。
主はご自身の約束に真実です。「わたしはあなたがたと結んだわたしの契約を決して破らない」(2:1)。主の救いの計画は、人の思いや弱さを越えています。もちろん、主は、御心から外れたサムソンの行動を是認しているわけではありません。主イエスの救いをいただいた新約時代のクリスチャンは、聖霊によってキリストの品性という御霊の実を結ぶように導かれています(ガラテヤ5:22)。
2)主に祈り、使命に立ち返るサムソン
敵の企みにより、サムソンはデリラに心の内を明かしてしまいます。「髪を剃らない」ことは、彼が神を第一にし、神の御心に生きることの一つのしるしでした。しかし、肉の思いを優先させたとき、そこに落とし穴がありました(16:20)。髪を剃られ、目を抉られ、敗北者のような姿にされたサムソンでしたが、偶像を祭った敵の嘲笑の前で、彼は主に祈り求めます。「神、主よ、どうか私を心に留めてください。ああ神よ、どうか、もう一度だけ私を強めてください」(16:28)。祈りは聞かれ、神の力が現わされました (16:30)。
クリスチャンは、主イエスにより「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイ6:33)と約束されています。復活の主の証し人としての使命を委ねられている(マタイ28:18~20)私たちは、優先順位を違えてはなりません。「敵の前で宴を設け、頭に油を注がれる」(詩篇23)主は、祈り求める者に真実にこたえて下さり、主と共に使命を全うさせてくださいます。主の御心に立ち返る時、決して「手遅れ」ということはありません。
3)信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さずに
サムソンを含む旧約の信仰者たちは、その欠点や失敗の多い人生の歩みを通して、ただ信仰によって真実な神の祝福と力を体験し、約束のメシヤによる完全な救いを指し示す証人として、地上で信仰の歩みを全うしました。ヘブル人への手紙は、さらに踏み込んで、「私たち(クリスチャン)を抜きにして、彼ら(旧約の信仰者たち)が完全な者とされることはなかった」(ヘブル11:40)と言い切ります。
主イエスは、文字通りサムソン以上に捨て身で十字架にかかり死なれ、復活をもって死と罪の呪いを打ち砕いてサタンに勝利して下さいました。弱い者を聖霊によって強め、主の証人として用いて下さることは、主の御心です。忍耐をもって信仰の歩みを全うし、主に委ねられた使命を全うする秘訣は、どのような状況においても、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さない」(ヘブル12:2-3)ことです。
おわりに
サムソンは、霊的低空飛行の士師時代にあって、弱さや欠点にもかかわらず、神に用いられました。彼はたった一人で敵と戦いましたが、今、私たちは一人ではなく、キリストのからだである教会を共に建て上げる群として、主によって召し出されています。教会のかしらは主イエスです。主イエスから目を離さず、信仰による忍耐と勝利をいただき、主イエスを証しする使命を全うさせていただきましょう。

