『神に義とされた者』
本日は、主イエスのたとえ話から、義とされた人の祈りについてみます。
Ⅰ.神の前に祈ることを許されている幸い
主イエスは、神に義と認められる人の祈りの姿勢について、たとえをもって語られます。パリサイ人と取税人が、それぞれ祈るために宮に登ります。パリサイ人の祈りは、自分は他のだれよりも律法を厳格に守り、正しい信仰生活を送っていることを感謝するものでした。取税人の祈りは、神が自分の罪を赦して下さること、そして罪によって失われてしまった神との正しい関係の回復でした(ルカ18:11-13)。
教会に対して、最初に祈るべきことを勧めているのは、単に問題解決や困難に対処するためではなく、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ 56:7、マタイ 21:13etc.)と聖書で語られているからです。教会は主イエスの体であり(エペソ 1:23)、神と交わり、すべての人のために願い、とりなし、感謝をささげる「祈りの家」なのです。主イエスの十字架の贖いによって、私たちは神の民、祭司ともされたのですから(Iペテロ 2:9)、第一に神に祈り、神の御心を教えていただくことから始めましょう。
聖書は、二人のうち義と認められて家に帰ったのは取税人であると語っています。取税人は周囲のことには目もくれず、ただひたすらに神だけを見上げて罪の赦しを乞い願っているのです。私たちが神の前に立って神との交わりが許されているのは、当然のことではなく、ただ神の一方的な恵みと憐れみによることです。私たちが御子イエスの十字架の贖いによって、罪赦され神の子とされた大いなる恵みを感謝しましょう。
Ⅱ.父なる神を呼ぶことのできる幸い
二人の神の前に立つ祈りの姿勢の違いは、真実に神を見上げて立っているか、それとも人の目を恐れているかということです。人が人の前に立つなら、他者と比較をして、自分を高くしたり低くしたりしてしまうのです。これが、「自分を高くするか低くするか」ということになるのです。神のみ前に立つとは、正しい裁きを行われる神のみ前に畏敬の念をもって立つということです。神の裁きの厳かさを知っていた取税人は、神の憐れみを求め「罪人の私をあわれんでください。」と願ったのです。
主イエスの十字架によって、私たちは父なる神を「アバ。父よ。」と呼ぶことのできる神の子とされたことを感謝しましょう。そして、父なる神は求めるものに必ず応えてくださるお方であることを覚えて、ますます主との交わりに生きようではありませんか(ルカ11:9-13)。
Ⅲ.再び来られる主を待ち望む幸い
ここで主イエスが語っているたとえ話は、前の不正な裁判官に正しい裁きを願いもとめた一人のやもめのたとえ話と結びついています。どちらも、神の国、神のご支配、神による正しい裁きが行われることを信じ、畏れをもってそれに備えて生きる信仰のあり方を教えています。
神を畏れることがなければ、人の評価を恐れてしまいます。そこには、自分を高くしたり低くしたりする評価が生まれるのです。神の前に真摯に立ち、神との交わりに居るとき、神は私たちの祈りを受け止めて下さり、私たちを憐れんでくださるのです。主イエスは、そのために、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さいました。主が再び来られる時を待ち望みながら、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないで」(へブル12:2)歩み続けようではありませんか。
おわりに
私たちは、神のみ前に立つのには全く相応しくない罪人でした。しかし、主イエスの十字架の贖いによって、神の民とされ神に祈り求める者とされました。主が再び来られる時まで、主と共に信仰生活を歩み続けましょう。