『キリストの体なる教会』
はじめに
本日は、キリスト者はキリストの体なる教会を構成する一人ひとりであることを見ます。
Ⅰ.キリストの体なる教会とその肢体
パウロは、教会はキリストの体で、クリスチャン一人ひとりはその体の肢体であると語ります。また、教会は聖霊が兄弟姉妹に与えた賜物、奉仕、そして働きを用いて建て上げられて行くことを教えています(Ⅰコリント12:13)。
人の体には多くの部分があり、それぞれが必要で、比較できないものです。同様に、各自に与えられている神の賜物も、他の人のものと比べられるものではありません。私たちは、それぞれに与えられた神からの賜物を精一杯用いていけば良いのです。神は、それぞれの賜物を用いてくださり、神の栄光のためにその人の使命と働きを全うさせてくださるのです。
Ⅱ.弱く見栄えしないものをこそ愛しんでくださる神
コリントの教会において、それぞれに与えられた賜物は、神が与えて下さったものであることを忘れて、与えられた賜物を競い合っていた人たちがいたのです。その中には、他の人の賜物や働きを価値のないもの、役に立たないとして批判し、軽んじていた人たちがいたのです。それでパウロは、人は体の中で見劣りがする部分こそ見栄えよくし、弱い部分は他の部分の働きによって補い合っていることを指摘します。さらには、神はキリストの体を建て上げるために、むしろ見劣りのする部分をいっそう引き立たせようとしておられることを教えています(Ⅰコリント12:22-24)。
神は、弱い者、見劣りのするものをこそ慈しみ、あわれんでくださるお方です(イザヤ42:3)。主なる神は、罪の弱さがあり、見劣りするような私たちを、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言って、御子イエスの十字架の救いに招いてくださいました。お互いが主の救いを頂いたものとして受け入れ、神に感謝して神の教会を建て上げて行く者とさせて頂きましょう(Ⅰコリント12:25)。
Ⅲ.一人は全てのため、全ては一人のため
パウロは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです」(Ⅰコリント12:26)と語りました。人の体の小さな一部分でも、それは体全体に影響を及ぼすように、キリストの体である教会にも同じことが当てはまります。一人が尊ばれたなら、全体が共に喜ぶのは、その働きが個人のものではなく、教会全体の働きだからなのです。
教会は、主イエス・キリストの恵みによって召し集められ、育まれている群れです。キリストの心を自分の心とするとき、まだ主イエスを救い主として受け入れていない方々のために執り成し、また兄弟姉妹に対しての「兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合う」(ローマ12:10)交わりへと導かれることを覚えましょう。
おわりに
教会はキリストの体であり、クリスチャンはその肢体です。互いをキリストに似るものとして建て上げられて行くために、聖霊は各々にユニークな賜物を与えてくださっています。キリストの体である教会を建て上げるために、与えられた賜物を用いて行きましょう。