『真ん中に立ちなさい』
はじめに
本日の聖書箇所から、安息日の主イエスを見てまいります。
Ⅰ.主なる神を礼拝する幸い
当時のユダヤ人による律法に基づいた礼拝は、見せかけの表面的、形式的なものとなっていました。それは、礼拝者が律法違反をしないかを監視するものとさえなっていたのでした(マルコ3:1-2)。
主は、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。」(マルコ2:27)と語られました。安息日は、安息日を守ることが全てではなく、人がいやされ、平安が与えられ、罪の赦しが宣言され、主にある新しい命に生きることを感謝して主を礼拝する日です。私たちは、主イエスの復活を覚えて週の初めの日に主を礼拝します。主の救いの恵みを感謝して、霊とまことをもって主なる神を礼拝しましょう。
Ⅱ.主イエスの招き
手のなえた人は、当時のパリサイ派などの誤った律法理解から罪人とされていました。それゆえに、彼は神の前に立つ資格などないとされて、人目を避けるようにして会堂の隅で礼拝していたのです。しかし、主イエスはその様な人にこそ「立って真ん中に出なさい」と語られます(マルコ3:3)。この主の招きの言葉は、罪人であるからこそ、礼拝の中で最初に神の赦しを頂いて、主の祝福にあずかる必要があるということを示しているのです。
主イエスは、「正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)。私たちは主イエスに招かれて、主の前に立ち、真ん中に出なさいと招かれています。この幸いな招きを感謝して、主の前に進み出て、主に仕える者とされたことを感謝し、主に従って行きましょう。
Ⅲ.主の救いを頂こう
主イエスは、「安息日にしてよいのは、善を行うことなのか、それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」と問われます。問われた人々は黙ります(マルコ3:4)。主はこれを見て、「怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら」、手のなえた人を癒されました(マルコ3:5)。
主イエスの怒りは、人にではなく、人の罪に対するものです。また、主イエスは、神を神と認めない人々の心の頑なさを嘆き、悲しまれたのです。それは、主イエスを救い主と認めない罪によって、やがては永遠の滅びに向かう人々の末路を知っていたからです。しかし、主イエスは、そんな罪人のために十字架にかかって下さり、救いの道を与えて下さいました。安息日の主は、どこまでも人々が罪を悔い改め、主のもとに来て救いを受けることを待っておられます。今、主の救いの招きに応えて、主を自分の心の王座に迎え入れましょう。
結 び
主イエスは今、「立って真ん中に出なさい」と私たちを招いておられます。罪も弱さも、そのままで主のもとに行きましょう。主のもとには、赦しと平安、豊かな命があるのですから。