『すべての民の祈りの家』
はじめに
本日より受難週になります。主イエスの十字架の歩みを覚えると共に、主が語られた「祈りの家」についてご一緒に見てまいります。
Ⅰ.信仰の実を結ぶ
主イエスは、エルサレムの宮に行かれる途中で、いちじくの木をご覧になって、実がないのでその木を枯らしてしまわれました。それは、「いちじくのなる季節ではなかったから」(マルコ11:13)でした。実りの季節ではないにも関わらず、葉が生い茂って、いかにも実がありそうだったのです。
このいちじくの木は、イスラエルを象徴しています。当時の人々は、外側は神を敬っているようであっても、その内側は神の御心に適わない、むしろ神の願いとは正反対の信仰生活をおくっていたのです。葉ばかりが生い茂るような信仰ではなく、主なる神の愛を受け入れて、主と共に歩むという信仰の「実」を結ばせて頂きましょう。
Ⅱ.すべての民の祈りの家
主イエスは、エルサレムの宮に入られた時、宮の中で売り買いしている人々を追い出し、さらには宮を通り抜けて器具を運ぶことも許されませんでした(マルコ11:15-16)。それは単に、神の宮が商売の場となっていることだけではなく、「異邦人の庭」と呼ばれている場所での礼拝と祈りが、妨げられていたからでした。
主は、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)と語られました。このことは、神はユダヤ人も異邦人も、全ての人々が主のもとに来て礼拝し、祈ることを願われ、招いておられることを教えています。私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、神の民とされ、自由に主を礼拝する者とされたのです。主の救いを頂いたことを感謝して、主をほめたたえ、霊とまことをもって主を礼拝しましょう(ローマ12:1)。
Ⅲ.神の宮である主イエスに祈る
祈りの家、神への礼拝の場であるべき宮とは、父なる神であると共に、神のひとり子である主イエスのことです。主イエスこそ神の宮の主であり、宮は主イエスにとって「わたしの家」なのです。全ての人々の祈りの家を打ち立てるために、主イエスはこの世に来られて、十字架の贖いを成し遂げて下さいました。
主は、私たちが信じて祈るとき、山さえも動くことを教えられました(マルコ11:23)。山を動かすのは、主なる神です。私たちは「すべての民の祈りの家」である、主イエスに拠り頼み、すべての願い事を主に祈ろうではありませんか。自らの罪のために、神の聖なる宮を「強盗の巣」にしてしまうような者でしかない私たちであっても、その弱さを知って、信仰による救いを与え、祈る者に山さえも動かす偉大なわざをなして下さるお方なのですから。
結 び
主イエスの十字架の贖いによって、私たちは信仰によって罪を赦され、神の民とされました。「すべての民の祈りの家」なる主イエスの元に来て、礼拝し、祈りを捧げ、主の栄光の御業を仰ぎ望みましょう。