『主にあって一致する』
はじめに
本日の聖書箇所から、主にあって一致する幸いを見てまいります。
Ⅰ.キリストにあって一致する
パウロは、手紙の最後で、ユウオデヤとスントケという二人の婦人に、「主にあって一致してください」と勧めます(ピリピ4:2)。二人の問題は、単なる個人的なことではなく教会全体に関わることだったと考えられます。しかし、それがどんな問題であったとしても、聖書は、「キリストにあって」解決できると言っています。
全てのクリスチャンは、主イエスの十字架の贖いによって、主にある「兄弟姉妹」であり、御国の「いのちの書」に名をしるされた者です。主の救いを頂いた者は、キリストの体なる教会に召し集められ、同じ主によって導かれ、神の御国を目指して歩む者とされたのです(エペソ4:4-6)。神の民とされた私たちクリスチャンは、主にあって一つとされていることを覚えましょう。
Ⅱ.キリストにあって同じ望みを持つ者
二人の婦人はこれまで、他のパウロの同労者たちと同様に、福音宣教のために協力し、心を合わせて共に主の働きに仕えてきた人たちでした。しかし、パウロがピリピを去ったことなどで、彼女たちの間に意見の違いが大きくなっていったと考えられます(ピリピ4:3)。パウロは、伝道方法や教会活動についての意見が違っても、主から頂いた福音を伝えるという使命のために、一致できることを教えています。
私たちも、各々が主から使命を与えられていますが、御言葉を宣べ伝え、キリストの教会を建て上げていくという共通の使命が与えられています。主イエスによる救いを頂き、永遠の神の御国を目指して歩む者とされているのですから、心を一つにして、同じ望みをもって歩み続けましょう。
Ⅲ.キリストの姿に倣う
パウロは、二人の婦人に語りかけるだけでなく、教会の人々にも「真の協力者よ。彼女たちを助けてやってください」と語り掛けます(ピリピ4:3)。「真の協力者」とは、「くびきをともにする者」という意味があります。教会は、キリストのからだで、「もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。」(Ⅰコリント12:26)
ユウオデヤとスントケは、ピリピ教会設立の初めから、大きな働きをして来た人たちでした。しかし、そんな二人でも、パウロから一致について勧められる必要があり、他のクリスチャンたちの祈りと助けが必要でした。
私たちも、キリストにあってそれぞれが頂いている賜物が用いられるためにも、祈りと助けをもって仕え合いましょう。主にあって一致を保つために、主イエスの姿に倣いましょう。主は人となってくださった、しかも仕える者となって私たちの所に来てくださったのですから(ピリピ2:6-8)。
結 び
パウロは、ピリピ教会の聖徒たちに「主にあって一致」すること、互いに助け合うことを勧めました。主にある一致は、主が仕える者の姿をとってくださったことに倣うことによって保たれます。主イエスを見上げて、互いに人を自分よりもすぐれた者として仕え合って行きましょう。