『何も思い煩わずらわないで』
はじめに
本日は、パウロがピリピ教会の人々に勧めた信仰姿勢から、主にある幸いを見てまいります。
Ⅰ.いつも主にあって喜びなさい
はじめに、パウロは「いつも主にあって喜びなさい」と命じました。「主にあって喜ぶ」ことは、クリスチャンの特徴の一つです。
神に敵対し罪人であった私たちは、様々な苦しみや悲しみを自ら刈り取り、ついには、永遠の死に至る者でした。しかし、父なる神は、ひとり子イエスの十字架の贖いによって、主を信じる者に罪の赦しと永遠のいのちを与えてくださいました。そして、主が再び帰ってこられるまで、私たちと共にいてくださり、信仰の歩みを導いてくださっています。主イエスの救いの恵みを頂いた私たちは、主と共に生かされていることを覚えて、「いつも主にあって喜ぶ」者とされたことを感謝し、主の御名をほめたたえましょう。
Ⅱ.寛容な心をすべての人に知らせなさい
パウロは次に「寛容な心をすべての人に知らせなさい」と命じます。主の救いに与って、「いつも主にあって喜ぶ」者の喜びは、内に留めておくことができずに外側にも現れ出るのです。その一つが、他の人に対する「寛容」です。ここで注目すべきは、「寛容を知らせなさい」と命じているのであって、「寛容になれ」と言っているのではありません。「寛容」は、すでに主イエスにおいて示され、クリスチャンは主の寛容を体験した者なのです。
主にある寛容は、自分の幸いについては主に委ねつつ、他の人に対して建徳的な言葉や態度を取るのです。主の救いに与った私たちは、キリストに似る者となるように、御言葉と聖霊の導きによって成長させて頂いていることを覚えましょう。キリストの思いを自分の思いとさせて頂き、主イエスを仰ぎ望んで歩み続けましょう。
Ⅲ.何も思い煩わないで
第三に、パウロは「何も思い煩わないように」と命じています。私たちは、すぐに思い煩い、心配で心を一杯にして、主にある喜びを忘れてしまいがちです。主イエスは、思い煩いや心配には、良いことは何もないことを教えています(マタイ6:27)。
聖書は、「思い煩い」から心を守るために、主に感謝をもって「祈り」「願い」、「願い事を神に知って頂く」こと、すなわち祈ることを教えています。神に近づき祈る特権を与えられた私たちは、主に祈る中で「神に知っていただいている」ことを確信して、全ての重荷を主の前に下ろすことができるのです。人の知恵や力でなく、主の確かな知恵と力が、聖徒に「人のすべての考えにまさる神の平安」を与えて、「心と思いをキリスト・イエスにあって守って」くださるという安心を与えるのです。私たちは、御言葉と聖霊の導きによって心を守り、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで」いましょう(ヘブル12:2)。
結 び
思い煩いや心配は、私たちを主にある喜びから遠ざけてしまいます。しかし、主イエスの十字架に示された神の愛を覚えて、主に感謝をささげる祈りと願いを捧げましょう。主は、私たちの祈りを聞いて、人知を遙かに超えた平安を与えてくださるのですから。