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『一粒の麦のように』

説教:髙橋 正人師
聖書箇所 ヨハネ12:20-28

はじめに

本日は、主イエスの一粒の麦のたとえから、神の救いのみ業と、主に従う歩みについてみてまいります。

Ⅰ.主イエスを紹介する

過越祭の礼拝のために上ってきた人々の中に、幾人かのギリシヤ人たちがいました。彼らは、真の神である主イエスを求め、ピリポに主イエスに会わせて欲しいと願ったのでした(ヨハネ12:20-22)。

この主イエスを見たいと願ったギリシヤ人たちの姿、そしてピリポが彼らを主と会えるようにしたことは、人が真の神を求め、その神を紹介するというひとつの型を示しています。主イエスを必要としている人々は、私たちの周りに大勢います。そして、神は真実に主イエスを求める者に、先に救いを受けた聖徒たちを通し、様々な方法で主を求める人と会ってくださいます。私たちは、主が共におられることを覚えて、恐れず、主イエスとその救いを語り続けましょう(使徒18:9-10)。

Ⅱ.一粒の麦とは主イエスの十字架による救いのこと

主は、ギリシヤ人たちと会った時、「一粒の麦」のたとえをもって、ご自身が十字架につけられることを語られました(ヨハネ12:24)。これは、これから主が成される十字架の死と復活によって、神の救いのみ業がすべての人に成就することを語られたのです。

主イエスの十字架の贖いによって、人は誰でも主を信じる信仰によって救われるという道が備えられました。私たちが今、主によって新しい命に生かされ、主にある交わりの中で歩んでいるのは、一粒の麦として死なれた主イエスによってもたらされた実りなのです。主の救いのみ業を感謝して、主の御名を賛美しましょう。

Ⅲ.私たちも一粒の麦として生かされる

主は、一粒の麦のたとえをもって、聖徒たちにも真の命に与って生きる幸いを語られます。それは、「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです」(ヨハネ12:25)というものです。これは、自分を主として生きるのではなく、私たちを愛してやまない主イエスに従うことによって与えられる真の命に生きることの幸いを教えています。

全ての聖徒は、この一粒の麦となって下さった主イエスの実りの中で生かされています。主イエスを信じて従うならば、主は常に私たちと共にいてくださるのです。そして、この一粒の麦の死が、全ての人のための神の救いの業であることを覚えて、ピリポやアンデレのように、私たちも主イエスの救いを語り伝える者として歩んで行きましょう。そこに真の喜びと、主の復活に生かされている幸いを覚えるのですから。

結 び

主イエスという「一粒の麦」の死は、全ての人のための神の救いの業で大きな実りをもたらしました。全ての聖徒は、「一粒の麦」の実なのです。私たちもピリポやアンデレのように、「一粒の麦」である主イエスの元に人々を招き、また、一粒の実とされたことの素晴らしい恵みを語り伝えてまいりましょう。

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