礼拝説教

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『神のみ業を見るために』

説教:髙橋 正人師
聖書箇所 マルコ9:14-29

はじめに

本日は、信仰は主なる神から、一方的な恵みによって与えられたものであることをみてまいります。

Ⅰ.祈りは主を知る親しい交わり

主イエスが、三人の弟子と山にいて不在の時のことです。麓にいた他の弟子たちは、「けがれた霊」を追い出すことができませんでした(マルコ9:14)。後に、弟子たちはこのことについて、その理由を主に問いました。彼らは以前、主によって宣教に遣わされた時に、けがれた霊を追い出す権能などを授けられたことがあったからです(マルコ6:7-13)。

主は、「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」(マルコ9:29)と言われました。ここでの「祈り」とは、目的のために主の力を頂くというのではなく、主ご自身を求めること、主をより深く知るということです。祈りは、主との交わりです。私たちは、祈りを通しても主をより深く知る者とさせて頂きましょう(ヨハネ17:3)。

Ⅱ.聖徒を通して現される主の御業

主イエスは、この出来事から弟子たちや人々の不信仰を嘆きつつ、「信仰のない時代」と言われました(マルコ9:19)。ここで、「時代」とは、「この世」のことで、現代の私たちも含まれることです。私たちは、主によって今の時代に遣わされています。主の業のためにと言いながら、いつしか自分たちの力だけで孤軍奮闘して疲れ果ててはいないでしょうか。主の業、働きのためにと、主イエスではなく、主の権威や力をだけ求めてはいないでしょうか。

私たちは、最初に宣教に遣わされた弟子たちのように、神の業は、聖霊によってなされるということ。そして、主の働きのために、主ご自身が私たちを用いてくださり、私たちは主の御業のほんの一端を担わせていただいているだけだということを覚えようではありませんか(ルカ17:7-10)。主の偉大な御業は、聖徒たちを通して表されるのですから。

Ⅲ.願い求めるのは主イエス・キリスト

子どもの父親は、「できますれば」助けてください(マルコ9:22)と主に願いました。この願いは、人間的には礼儀正しい謙遜なものでしょう。しかし、主は「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)と応えられました。父親の内には、できないならまた別の手段を考えて子どもを助けよういう思いがあったのです。それは、主イエスではなく、主の権威や力だけを用いようとする「信仰のない時代」そのものが現れていたのです。主によって霊の目を開かれた父親は、「信じます。不信仰な私をお助けください。」(マルコ9:24)と、主イエスご自身を求めました。救いは、御子イエスの十字架の贖いによって与えられました。私たちは、自分の行いではなく、神の恵みによって、信仰によって救われたことを覚えて、主を知ることを喜びとさせて頂きましょう。

結 び

私たちが救われたのは、恵みによるのであって、一方的な神の憐れみによることです。救いは、主なる神が完成してくださっています。私たちは主イエス・キリスト自身を知ることを求めて行きましょう。

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