『荒野の誘惑活』
はじめに
本日は、荒野の誘惑に勝利された主イエスを一緒に見てまいります。
Ⅰ.神を畏れて生きる
主イエスは、公生涯に入られる前に、「悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれ」(マタイ4:1)ました。そこでは、三つの試みを受けられました。これらの試みは、いずれも「あなたが神の子なら」という問いかけで始まります。
主は誘惑に対して、サタンと議論したのではなく、「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4:4、申命記8:3)、「あなたの神である主を試みてはならない」(マタイ4:7、申命記6:16)、「主にだけ仕えよ」(マタイ4:10、申命記6:13)と語られ、聖書の御言葉をもって退けました。主イエスの十字架の贖いによって、信仰による神の子とされた私たちですが、この世にあっては私たちの信仰を奪おうとする様々な試みがあります。主イエスに倣って、神を信頼し、聖霊に導かれて御言葉の正しい理解と実践によって、信仰の歩みを続けましょう。
Ⅱ.私たちにとって試みは主に出会う時でもある
主イエスは、誘惑に対して申命記の御言葉を用いられました。昔、イスラエルは、エジプトで奴隷でしたが、主によって立てられた指導者モーセによって自由人とされて、約束の地を目指して旅をしました。その間、荒野での40年間の歩みで、主の民としての試みを受け、養われ続けました(申命記8:2-5)。
私たちも、この世という荒野で主と出会うのです。主によって生かされていること、神の民として訓練されて、神の助けと養いがあることを体験するのです。私たちの霊の糧であり、人生の路を照らしてくださる御言葉に従ってまいりましょう(詩篇119:105)。また、主イエスにすべてを委ねて信頼し、主なる神のみを畏れる歩みを続けましょう(申命記6:4-5)。私たちにとって、試みは主に出会う時でもあることを覚えましょう
Ⅲ.試みの意味
聖書は、御霊が主イエスを荒野に導き、試みを許したことを語っています。これによって、主イエスの救い主としての本来の使命を確かなものとし、また、私たちも受ける試みに対して勝利してくださったことを記します。
試みは、私たちを滅ぼすためではなく、私たちを育てるため、信仰の訓練のために、父なる神の許しの下で与えられているのです(ヘブル12:6-9)。主イエスの十字架の苦難がなければ、主の復活の喜びはありませんでした。主イエスの十字架の贖い以上に、私たちの人生における試練の意味を教えるものは他にありません。真実な神は、私たちを「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。神からの恵みと受け取る時、その試練は祝福になることを覚えましょう(ローマ5:3-5)。
結 び
主イエスは、第二のアダムとして来られて、悪魔の試みに勝利してくださいました。主は、人となられたので、試みられている私たちを知って助けることができるのです。私たちは主イエスに倣って、御言葉に養われ、主のみ心に従い、主だけを礼拝し仕え続けてまいりましょう。