『神に呼び求める』
はじめに
本日は、先週に引き続き、サムソンの姿を通して、主は誰でも主に信頼して呼ばわる者には応えてくださるお方であることをみてまいります。
Ⅰ.妥協に生きるユダの人々
サムソンは、義父が自分の妻を別の男に与えたことで激怒し、ペリシテ人に害を加えます。(士師15:1-5)。ここからペリシテ人との報復合戦が始まり、それがユダ全体にまで波及します(士師15:6-9)。これは、主がユダのために「ペリシテ人と事を起こす」ためでした。
ユダの人々は、ペリシテ人が自分たちと戦おうとすることを知って、サムソンを責めて彼を縛り、敵の手に渡そうとします(士師15:11)。人々は、本来向けるべき戦いの矛先をサムソンに向けて、敵と妥協することで偽りの平和に生きようとするほどに、霊的盲目状態に陥っていたのです。私たちは信仰において、主の御心とは違ったことで妥協してはいないでしょうか。信仰については、世と妥協せず(ローマ12:2)、主の御心を求め、時には敵対すべきものには断固として立ち向かう知恵と力を主に求め、霊的に目覚めさせて頂きましょう。
Ⅱ.求める者に応えてくださる主
サムソンが敵に引き渡されそうになったとき、「主の霊が激しく彼の上に下り」、なわめが手から解け落ち、彼はろばのあご骨でペリシテ人千人を撃ちました(士師15:14-17)。その後、主は、ひどく渇きを覚えたサムソンの呼び求めにただちに応えられました。サムソンは主によって水を得、元気を回復して生き返ります。主はみ手をもって守られると共に、御名を呼び求める者にあわれみを示してくださるのです(士師15:18-19)。
サムソンの姿は、本質的には今の私たちと同じといえます。私たちは、主の一方的な恵みによって、罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられました。御子イエスの十字架の救いによって、サムソン以上の召命と賜物を頂いた私たちは、ますます主に信頼し、主の御業のために用いられましょう。現代の霊的に渇いた暗黒のような状況にあって、枯れることのない主の命の水を与えるものとさせて頂きましょう。主イエスの十字架の贖いによって、求める者には誰にでも命の水が与えられるからですから(ヨハネ7:37-38)。
Ⅲ.主はその時代に生きる者を用いてくださる
士師時代に立てられたサムソンは、報復合戦も平気で行うような、一見、主の器とは思えない人でした。しかし、主はこのような人を用い、何の良いこともないように見える出来事の中にも主のみ業を成し遂げてくださいました。
主は、人の全く思いもしないような人を用い、考えもつかないような方法でご自身の業を成し遂げられるのです。この主なる神は、昔も、今も、これからも変わることがありません。今の私たちの時代が士師時代と思えるようでも、また見えるところどんなに希望がない状況でも、変わることのない主は、救いの御業を成し遂げられるのです。主に望みをおいて歩み続けましょう(マルコ10:27)。
結 び
主は、サムソンのような者でも、召命と賜物を与え、主に呼ばわるときには応えてくださいました。御子イエスの十字架の贖いによって、私たちは士師時代の信仰者たち以上に、恵みとあわれみを頂き、主イエスの御名によって祈ることを許された者です。遣わされた所で、主イエスの救いの恵みを伝え続けましょう。