『救いの王が来られる』
はじめに
本日から受難週に入ります。十字架の贖いのために、エルサレムに入城された主イエスを見てまいります。
Ⅰ.主イエスこそ真の平和をもたらす王
ゼカリヤは、イスラエル民族がバビロン捕囚から帰還し、エルサレムに神殿を再建し、国を復興させている時に遣わされた預言者でした。民の生活は依然として苦しく、加えて、戦争の危険が迫る時代でした。
主はゼカリヤを通して神の国とその王の到来を告げ、民を励ましました(ゼカリヤ9:9-11)。来るべき王は、武力に拠ってではなく、子ろばに乗って来られる真の平和をもたらす者というものでした(ゼカリヤ9:9)。それは、政治的な解放を成し遂げるということではなく、明確に現代にも通じる霊的な意味で語られたことでした。
このゼカリヤの預言は、主イエスによって成就しました。主は、真の平和を私たちにもたらしてくださいました。すなわち、主なる神と私たちが和解するために、罪による隔ての壁を打ち破ってくださったのです(エペソ2:14-15)。
Ⅱ.イエスこそ王の王、主の主
ゼカリヤの預言の通り、主イエスは十字架の贖いのためにろばの子に乗ってエルサレムへ入城されました。その時、大勢の人々は、主イエスを軍事的、政治的に自分たちを解放してくれるこの世の王として歓迎したのでした(ヨハネ12:13)。
主イエスは、ろばの子に乗ってエルサレムに入られましたが、この意味を人々が理解するのは、主が復活されてからのことでした(ヨハネ12:16)。十字架の贖いを成し遂げられた主イエスは、死からの復活によって人の一切の罪と死に対して圧倒的に勝利する王です。誰も成し得なかった罪に勝利し、人の究極的な敵である死に打ち勝ってくださったのです。イエス・キリストこそ、王の王、主の主です。ハレルヤ!
Ⅲ.主イエスを迎え入れる
「ホサナ」と歓喜の叫びで主イエスを出迎えた人々は、その数日後に「十字架につけろ」と叫ぶようになります。人々は、自分たちの思いや願いを勝手に主イエスに当てはめて、自分たちの都合に合わせた王としてまつりあげ従わせようとしたのです。しかし、主イエスはほめられても、罵られても、常に父なる神の御心を知って従い通されました(ピリピ2:8)。
主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入城された姿は、世の王とは全く異なる姿でした。主の十字架は王どころか愚かで弱々しく見えたでしょう。しかし、主イエスは、罪人を救うという父なる神の救いの御業を成し遂げるためご自身を死に至るまで低くされました。この主イエスの十字架の贖いによって、主を信じる者は全て救われるという道が開かれたのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(Ⅰコリント1:25)のです。この真の王であるイエス・キリストを心に歓迎しようではありませんか。
結び
聖書において平和というのは、何よりも先ず、神との関係における平和です。主イエスは、父なる神との隔ての壁を十字架によって打ち壊し、神との平和を実現してくださいました。主イエスを王として迎えるなら、自分が王となって歩むことから解放され、主に導かれる真の平和をいただけることを覚えましょう。