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『自分の十字架を負って』

説教:髙橋 正人師
聖書箇所 ルカ14:25-35

はじめに

本日は、自分の十字架を負って主イエスに従って行く幸いをみてまいります。

Ⅰ.主に全てを委ねて従う幸い

主イエスは、従ってきた大勢の群衆に、全てを捨てて主に従うべきことを教えられました(ルカ14:26-27)。これは、とても厳しいことのように思われますが、究極的な救い、永遠の命は、主イエス以外にはだれも与えることができないからです。

主に従うとは、家族と絶縁するということではありません。家族も主が与えてくださったものとして、主の十字架のもとで、キリストを中心に家族との関係を受け取りなおす。これが、祝福のスタートとなるのです。

Ⅱ.自分の十字架を負って主に従う幸い

主は、「自分の十字架を負ってわたしについて来なさい」と語られました(ルカ14:27ルカ9:28)。「自分の十字架」とは、主から新たに与えられる使命のことです。それは、道なき道を一人で十字架を背負って行くというものではありません。主が共に歩んでくださるのですから、それは負いやすく、軽いものであり、永遠の命に至るものであることを覚えましょう(マルコ11:30)。

Ⅲ.キリスト者は地の塩である

主は、主の弟子になるということは、塩になるということだとたとえて語られます。塩は少量でも腐敗を防いだり、料理において他のものの味を引き立てる働きなどがあります。いずれの場合も、塩が主張し過ぎると全てが台無しになってしまいます。

私たちは、小さな存在かもしれませんが、「聖霊の宮」とされ(Ⅰコリント6:19)、キリストという偉大な「宝」を、「土の器」に入れているのです(Ⅱコリント4:7)。塩のたとえの様に、主のために生きる時、置かれている所で、罪による腐敗を防ぎ、主の栄光と恵みを現す者とされていることを覚えましょう(マタイ5:13)。

結 び

主イエスは、主に従うとは、人の情や人間関係にまさって優先すべきことであると教えています。しかし、「自分の十字架を負って」主に従って行くとき、家族や他者との関係において、私たちを救いの恵みをもたらす地の塩として用いてくださることを覚えましょう。父なる神は、御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことを願っておられるのですから(ヨハネ3:16)。

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