『私たちは主のもの』
はじめに
本日の聖書箇所から、主のものとされたキリスト者は、「主のために」生きるものであるということについて見ます。
Ⅰ.神に受け入れられた者同士
パウロは、肉を食べるか食べないかということで起こった問題について、さばきあうのではなく、むしろ信仰の弱い人を受け入れなさいと教えます(ローマ14:1)。信仰者となってからも、聖書の理解度や信仰の成長の差などは、それぞれに違っているからです。
全てのキリスト者は、神に受け入れていただき、「主のもの」とされて、共に信仰の歩みを続けているのです。「食べ物のこと」や「ある日」のことなどに代表されるようなことで、さばきあったり滅ぼしあったりするようなことがあってはなりません。主の恵みによって受け入れられた一人一人なのですから(Ⅰテモテ2:4)、私たちも主の恵みを基にして互いの徳を高め合う交わりをさせていただきましょう(エペソ4:29)。
Ⅱ.私たちは主に赦され、救いを頂いた者
パウロは、さばきあうことについて、一つのたとえをもって教えます。さばく者もさばかれる者も、本来「主のもの」、すなわち主のしもべです。さばくのは主人であり、主なる神なのですから、ある主人のしもべが、他の主人のしもべをさばくならば、それは自分の立場をわきまえない、他の主人に対する越権行為となってしまいます。
私たちは皆、主の恵みと憐れみによって、主の救いを頂き、神を礼拝する民とされたのです。この主の偉大な愛と恵みを覚えて、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。」(ピリピ2:3)という御言葉を実践して行こうではありませんか。
Ⅲ.生きるのも死ぬの主のため
クリスチャンが「主のもの」であるとは、何をするのかではなく、「主のために」することが中心となるということです。「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のもの」なのですから、全てのことは「主のために」行うべきです(ローマ14:8)。
主イエスの救いを頂いた私たちは、「罪から解放されて、義の奴隷となったのです。」(ローマ6:18)。主イエスの十字架の贖いによって、私たちは主と共に古い罪の自分に死に、主をよみがえらせた神の復活の命によみがえらせて頂いて、「主のもの」と変えられたのです。「主のもの」とされたクリスチャンは、死の奴隷から命に溢れるキリストの奴隷とされたのです。主の豊かな永遠の命に生かされる約束に堅く立って、全てのことを主のために行いましょう。
結 び
キリスト者は、主イエスの十字架の贖いによって救われ、「主のもの」とされ、神の子としての特権を頂きました。偉大な主の恵みに応えて、生きるにしても、死ぬにしても、すべて「主のために」行い、互いに励まし合いながら信仰の歩みを続けましょう。