『神の恵みを無にせず』
はじめに
本日は、主の大きな恵みに応える幸いをみてまいります。
Ⅰ.私たちの救いのための代価
復活のキリストと出会ったパウロは、主と共に生きて、主に仕える者と変えられました。彼は、人は律法を守り行うことではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるという救いに与ったからでした(ガラテヤ2:16)。主イエスは、十字架の贖いによって、誰でも信仰によって救われる道を完成してくださいました。
ガラテヤの人々は、信仰による救いからそれてしまい、律法の行いによって救われようとしていました。パウロはこのようなガラテヤの人々に、それは神の恵みを無にすることだと語ったのです。私たちの救いのために、御子イエスの尊い命が捧げられたことを覚え、主の救いの恵みを無にすることのないように、主のみ声を聞いたなら、主を心に迎え入れましょう。
Ⅱ.いま内に生きているのはキリスト
パウロは、律法は罪人である私を救うのではなく、裁くものでしかなかったと述べています。しかし、主イエスの十字架によって、律法の違反者にたいする裁きは成し遂げられました。従って、主を信じる者は「律法に対して死んだ者」であり、主がよみがえられたように、主を信じる自分も主のよみがえりの命に生かされているとパウロは語ります(ガラテヤ2:20)。
まず、主が私たちを愛してくださいました。私たちがまだ神を知らず敵対している時に、神の方から私たちのところに来てくださり、私たちを愛し選んでくださいました(Ⅰヨハネ4:19)。信仰によって新しく生まれた者は、主イエスと結ばれて一つにされた者であり、内に主が共に生きておられるのです。私たちは主の救いと、命を頂いた者ですから、内におられる主と共に生きて、主の働きのために用いて頂こうではありませんか。
Ⅲ.神の恵みに報いる
主なる神は、救いようもない罪人である私たちのために、十字架で死んでくださいました。この主の愛を、ないがしろにしてはなりません。罪の根本には、神との交わりに生きようとせず、自分の思いに生きようとすることがあります。そこから神の御心や教えに反する様々な行為が生まれて、人は罪を犯すのです。
主の救いを頂いていても、平然と罪を犯してしまうなら、それは主の救いのみ業の偉大さを理解していないからです。父なる神は、私たちの救いのために、ひとり子イエスの命という大きな犠牲を払ってくださいました。この主からの無代価の恵みを、人が何か対価をもってお返したり、負担を感じて受け取らないというのは、「神の恵みを無にする」ことです。神の愛と救いを頂くことが、神の恵みに報いることです。さあ、主の恵みをすぐに頂きましょう。
結 び
主なる神は、愛されるに値しない私たち罪人に、「神の恵み」である主の十字架による救いを与えてくださいました。人はその恵みを聖霊によって教えて頂くとき、主と共に真の命に生きる者とされます。神の恵みを無にしないために、主イエスを心に迎え入れ、主と共に歩み続けましょう。