『神の所有とされた民』
はじめに
本日の聖書箇所から、「神の所有とされた民」とされたことの幸いを見ます。
Ⅰ.永遠の初めから主に選ばれた者
聖書は、クリスチャンが「神の所有の民」とされたのは、主の深いご計画のゆえであることを述べています(エペソ1:4-5)。主に選ばれて神の民とされた者は、主と共に歩む、以前とは違う生活をするものとされました。それは、主の栄光ある偉大な救いの御業を宣べ伝えるためです(Ⅰペテロ2:9)。
父なる神は、その愛と熱心をもって、私たちを主の選びの民とし、聖なる民とするために御子イエスをさえ世に遣わしてくださいました。私たちは、主の目には高価で尊い存在です。神の民としての恵みをもって、歩み続けましょう。
Ⅱ.神の民とされた特権
キリスト者は、主によって選ばれたというだけではなく、神の民の特権を頂いています。「以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者」(Ⅰペテロ2:10)とされたのです。
私たちは、一方的な主の憐れみによって暗闇から光へ、のろいから祝福へ、絶望から希望へと移されました。さらには、「王である祭司」ともされたのです。旧約時代の祭司の働きは、罪人の罪を引き受けて、神の前に出て執り成しの祈りを捧げることでした。今の私たちクリスチャンにも「王である祭司」として、人々の救いのために執り成しをする働きが委ねられています。それは、一部の人たちに与えられた特権ではなく、全て主に救われて神の民とされた者に与えられた特権です。この特権を用いて、主イエス・キリストの救いを私たちの隣人に伝えましょう。
Ⅲ.天の御国を目指して進み続ける
「神の所有の民」とされた私たちクリスチャンは、この地上では旅人であり、寄留者です(Ⅰペテロ2:11)。「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)。ですから、この世に属するものや「たましいに戦いをいどむ肉の欲」を遠ざけなければなりません。
ペテロは、この世での私たちの生活は「しばらくの間」であり、「残された時」であると語って、短いことを教えています。この世のものは、過ぎ去りますから(Ⅰコリント7:31)、この世に必要以上に執着すべきではありません。困難の多い世にあっても、クリスチャンたちの「りっぱな行い」を通して、世が主をほめたたえるようになるのです(Ⅰペテロ2:12)。神の民とされたことを覚え、主と共に歩み、言葉と行いを通して主の恵みと偉大な救いの御業を宣べ伝えましょう。
結 び
クリスチャンは、イエス・キリストの十字架の贖いによって「神の所有の民」とされました。神の民は、天の御国を目指して歩むのであり、主は常に伴ってくださいます。私たちは、どこにあっても、主が共におられることを覚え、世にあっては、キリストの救いを頂いた者として歩み続けましょう。