『神を見つめる目』
はじめに
本日の聖書箇所から、主にあるいのちと幸いに生きる歩みについてみてまいります。
Ⅰ.いのちと幸いを選ぶ
主イエスは、マタイ5章から7章で、8つの「さいわい」について語られましたが、23章では8つの「わざわい」について語られます(マタイ23:13-36)。これは、旧約聖書の申命記30章にもあるように、主は「いのちと幸い」、「死とわざわい」を置くと言われた(申命記30:15)ことと関係していると考えられます。
主は全ての者に、真実に神を愛し、隣人を愛することができるように、自由意志を与えておられます。私たちは、命とあらゆる善きものの源である主を信じて、自発的に心から「いのちと幸い」の道を歩むことを選ぼうではありませんか(ガラテヤ5:13)
Ⅱ.主との生きた交わりに生きる
律法学者やパリサイ人たちは、主イエスが勧められる「いのちと幸い」の道を選びませんでした。それは、彼らが人に見られることをあまりにも重視したことによる偽善や霊的な盲目のためでした。
彼らの信仰熱心は、儀式や言い伝えを守り続けるということに現されました。しかし、いつしか主なる神との生きた交わりに生きることがなくなってしまっていたのです。信仰とは、単に律法を守り行うことではなく、私たちを愛してやまない主との生きた相互の交わりに生きることです。
Ⅲ.主の眼差しの中で生きる幸い
私たちは、人の目や評価ではなく、主が私たちをどのように見てくださるかという視点に立つべきです。神の眼差しの中で歩む時、私たちは偽善や霊的盲目から解放されます。
主イエスが私たちを見る眼差しは、律法学者やパリサイ人たちに見られる偽善や霊的盲目をさばくだけではありません。深い憐れみをもって見てくださいます。それは、ひとり子イエスの十字架の死によって示されました。主の眼差しは、私たちの罪を知り、弱さを覚えても、復活の主の新しい命に生かしてくださるものです。私たちは、この主による神の恵みの眼差しの中で、御国を目指して歩み続けましょう。
結 び
律法学者やパリサイ人たちは熱心に、神を信じていました。しかし、いつの間にか神との生きた交わりではなく、形だけに捕らわれていってしまいました。これは、私たちにとっても他人事ではありません。御言葉と御霊の導きによって、いつも主イエスとの生きた交わりに入れていただき、「いのちと幸い」の内に歩ませていただきましょう。