『生きるのはキリストのため』
はじめに
本日の聖書箇所から、キリストと共に生きることの幸いを見てまいります。
Ⅰ.全てのことは主のみ手の中にある
パウロは、どんな状況の中にあっても主にあって喜びました。それは、主がつねに共にいてくださり、全てのことが主のみ手の中にあることを知っていたからです。私たちクリスチャンの人生に起こる全てのことは、主イエス・キリストの関与の中で起こっている幸いを覚えましょう。
Ⅱ.主に自分を捧げる幸い
パウロは自分が生きることも死ぬことも、キリストがあがめられるために用いられるならば、自分にとってそれらは全て益であると語りました(ピリピ1:21)。それは、主の御心を自分の心として、主の栄光だけが現されることを求めていたからです。
主イエスは、「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。」(マタイ16:25)と語られました。自己実現のためではなく、主イエスのために自分を捧げて行く時、真の命と生きる目的を見出すことを覚えましょう。
Ⅲ.主のために生きる幸い
パウロの究極的な望みは、「世を去ってキリストとともにいる」ことでした(ピリピ1:23)。しかし、たとえ獄中の中であったとしても、人々の救いのために働くことが主のみ心であると確信していました(ピリピ1:24)。
私たちも、パウロのように、今置かれておる状況の中で主のために何ができるのかを祈りましょう。主はどのような状況の中でも、私たちを用いてくださることができます。主と共に、そして、主のために、生きることのできる幸いを覚えましょう。
結 び
パウロは、生きるのも死ぬのも、自分にとってどちらもが益であると宣言しました。それは、主がどんな状況においても、彼の人生を通して主の栄光を現わしてくださることを知っていたからです。主は、私たちクリスチャンの歩みを通して、主の栄光を現してくださいます。主イエスは、私たちを「地の塩」(マタイ5:13)、「世界の光」(マタイ5:14)としてくださったのですから。