『かすかな細い声』
はじめに
本日の聖書箇所から、私たちは常に語りかけ続けておられる、聖霊のかすかな細い声に聞き従うことの幸いをみてまいります。
Ⅰ.疲れ果てたエリヤ
預言者エリヤは、450人のバアルの預言者たちとの霊的戦いにおいて大勝利を得ました。しかし、彼には、事態は全く変わっていないように見えたのでした。イスラエルの民は、偉大な主のみ業を見たにもかかわらず、悔い改めて主に立ち帰らないばかりか、エリヤ自身、アハブ王の妻イゼベルに命を狙われることになってしまいます(Ⅰ列王記19:2)。エリヤは疲れ果てていました。(Ⅰ列王記19:4)。
エリヤは、主の偉大なみ業を体験するうちに、いつの間にかそれが自分の力で勝ち得たかのように思ってしまっていたのです。ですから、イゼベルの怒りもそのまま自分のものとして受け取ってしまい、恐ろしくなったのです。エリヤが体験した主の力あるみ業は、エリヤを通して主がなしてくださったことで、エリヤの力によることではありません。好ましい結果を得たなら、私たちは「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)との御言葉を思い起しましょう。
私たちは、重荷を自分の力だけで担おうとするなら、途端に疲れ果ててしまい、押し潰されてしまうことでしょう。主イエスは、すべての重荷を負っている人を招かれています。主イエスと一緒に重荷を負う時、たましいに安らぎが与えられます(マタイ11:28-29)。主イエスのくびきは負いやすく、主の荷は軽いからです(マタイ11:30)。
Ⅱ.主の前に立て
主は、絶望して生きる気力さえ失ったエリヤに、御使いを遣わして養い、神の山ホレブへと導きます(Ⅰ列王記19:5-8)。その上で、主はエリヤに語りかけられ、「外に出て、山の上で主の前に立て」(Ⅰ列王記19:11)と命じられます。
私たちも、様々な戦いの中で、苦しみや悲しみなどで打ちひしがれ、主の前から隠れて、ほら穴の中に閉じこもってしまうようになることがあります。そのような時、主がエリヤに語られたように、ほら穴を出て「主の前に立て」と語りかけてくださっていることを覚えましょう。私たちが前に向かって歩み出せるようになるのは、主なる神の前に立ち、主に近づく時です(ヤコブ4:8)。
「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(ヘブル10:19)。私たちは、主からあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。
Ⅲ.聖霊のかすかな細い声
主はエリヤに語りかけられてすぐに、ほら穴の前を通り過ぎられます(Ⅰ列王記19:11)。主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々が砕かれ、風のあとに地震が起こり、地震のあとに火がありました。しかし、いずれの中にも主はおられませんでした。ただ、「火のあとに、かすかな細い声があった。」(Ⅰ列王記19:12)ことを聖書は記しています。
これらの現象は、ある意味でエリヤがカルメル山でのバアルの預言者との対決の時に体験した事と重なります。私たちは、主が共におられることを、その様な特別な体験の中にあると考えるでしょう。エリヤも、バアルの預言者たちとの対決の勝利の後には、勝利の結実を見ることを期待したことでしょう。しかし、彼を真の意味で活かすことになったのは、火の後に聞こえた「かすかな細い声」でした。
新約時代に生きる私たちは、約束の聖霊によって、主イエスを知り、御言葉を思い起こさせて頂くことができます。聖霊は私たちを主との交わりに引き入れ、「かすかな細い声」をもって導いてくださいます。御霊の声にいつも耳を傾けてまいりましょう。
結 び
私たちは、エリヤのように主なる神の前に立たせていただきましょう。聖霊の「かすかな細い声」が語られていることを覚えましょう。細い声故に、様々な雑音にかき消されたり、聞き逃すことのないように、霊の耳をすませようではありませんか。