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礼拝メッセージ

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『かすかな細い声』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 Ⅰ列王記19:1-12

はじめに

本日の聖書箇所から、私たちは常に語りかけ続けておられる、聖霊のかすかな細い声に聞き従うことの幸いをみてまいります。

Ⅰ.疲れ果てたエリヤ

預言者エリヤは、450人のバアルの預言者たちとの霊的戦いにおいて大勝利を得ました。しかし、彼には、事態は全く変わっていないように見えたのでした。イスラエルの民は、偉大な主のみ業を見たにもかかわらず、悔い改めて主に立ち帰らないばかりか、エリヤ自身、アハブ王の妻イゼベルに命を狙われることになってしまいます(Ⅰ列王記19:2)。エリヤは疲れ果てていました。(Ⅰ列王記19:4)。

エリヤは、主の偉大なみ業を体験するうちに、いつの間にかそれが自分の力で勝ち得たかのように思ってしまっていたのです。ですから、イゼベルの怒りもそのまま自分のものとして受け取ってしまい、恐ろしくなったのです。エリヤが体験した主の力あるみ業は、エリヤを通して主がなしてくださったことで、エリヤの力によることではありません。好ましい結果を得たなら、私たちは「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)との御言葉を思い起しましょう。

私たちは、重荷を自分の力だけで担おうとするなら、途端に疲れ果ててしまい、押し潰されてしまうことでしょう。主イエスは、すべての重荷を負っている人を招かれています。主イエスと一緒に重荷を負う時、たましいに安らぎが与えられます(マタイ11:28-29)。主イエスのくびきは負いやすく、主の荷は軽いからです(マタイ11:30)。

Ⅱ.主の前に立て

主は、絶望して生きる気力さえ失ったエリヤに、御使いを遣わして養い、神の山ホレブへと導きます(Ⅰ列王記19:5-8)。その上で、主はエリヤに語りかけられ、「外に出て、山の上で主の前に立て」(Ⅰ列王記19:11)と命じられます。

私たちも、様々な戦いの中で、苦しみや悲しみなどで打ちひしがれ、主の前から隠れて、ほら穴の中に閉じこもってしまうようになることがあります。そのような時、主がエリヤに語られたように、ほら穴を出て「主の前に立て」と語りかけてくださっていることを覚えましょう。私たちが前に向かって歩み出せるようになるのは、主なる神の前に立ち、主に近づく時です(ヤコブ4:8)。

「私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。」(ヘブル10:19)。私たちは、主からあわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

Ⅲ.聖霊のかすかな細い声

主はエリヤに語りかけられてすぐに、ほら穴の前を通り過ぎられます(Ⅰ列王記19:11)。主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々が砕かれ、風のあとに地震が起こり、地震のあとに火がありました。しかし、いずれの中にも主はおられませんでした。ただ、「火のあとに、かすかな細い声があった。」(Ⅰ列王記19:12)ことを聖書は記しています。

これらの現象は、ある意味でエリヤがカルメル山でのバアルの預言者との対決の時に体験した事と重なります。私たちは、主が共におられることを、その様な特別な体験の中にあると考えるでしょう。エリヤも、バアルの預言者たちとの対決の勝利の後には、勝利の結実を見ることを期待したことでしょう。しかし、彼を真の意味で活かすことになったのは、火の後に聞こえた「かすかな細い声」でした。

新約時代に生きる私たちは、約束の聖霊によって、主イエスを知り、御言葉を思い起こさせて頂くことができます。聖霊は私たちを主との交わりに引き入れ、「かすかな細い声」をもって導いてくださいます。御霊の声にいつも耳を傾けてまいりましょう。

結 び

私たちは、エリヤのように主なる神の前に立たせていただきましょう。聖霊の「かすかな細い声」が語られていることを覚えましょう。細い声故に、様々な雑音にかき消されたり、聞き逃すことのないように、霊の耳をすませようではありませんか。

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神召キリスト教会|礼拝説教:2017年5月21日 ただ神の方法によって

礼拝説教

礼拝メッセージ

『ただ神の方法によって』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 Ⅰ列王記19:1-12

はじめに

本日の聖書箇所から、私たちが真の勝利の人生を歩むために、主に全く信頼して、御言葉に従って歩むべきことをみてまいります。

Ⅰ.現実を超えて御業を行われる主

イスラエルの民は、モーセの後継者ヨシュアを先頭にして約束の地に導かれ、その土地を勝ち取らなければなりませんでした。民はエリコの町の攻略に向かいますが、町は攻撃を予想して、城門を堅く閉じていました。40年の荒野の旅を終えたばかりのイスラエルにとって(ヨシュア5:12)、人間的に見るならばエリコの城壁を破って町を攻略することは不可能なことでした。

主は、ヨシュアに戦いを命じると共に、戦法も指示されました(ヨシュア6:3-5)。それは、人間的に見るなら、全く常識に反するだけでなく、愚かにさえ思えるものでした。しかし、主の命令に従った時、ヨシュアとイスラエルの民は、難攻不落のエリコを勝ち取ったのです。

ヨシュアは、主の御言葉が現実の中に働くのを目の当たりにしました。私たちクリスチャンも、現実を超えて御業を行われる主がおられることを覚え、主の勝利を頂こうではありませんか(Ⅰヨハネ5:5)。愚かに見える十字架の言葉によって、私たちは救われたことを覚えましょう(Ⅰコリント1:18)。

Ⅱ.主の方法に従う

主の命令に対して、ヨシュアは主に信頼して従いました。その信仰姿勢は、ヨシュアが民に対して告げたこと、実際に実行したことを通して示されました。

第一は、城壁を打ち崩すのは人ではなく、主であることを知ることです(ヨシュア6:2)。第二は、主がヨシュアと民に指示された事に従うことです。主が指示された事に従うことによって、主への信仰が示されました。第三は、忍耐です。ヨシュアとイスラエルの民は、主が命じられたことを黙って続けました。

ヨシュアたちは、主が城壁を打ち崩してくださると信じて、六日間信仰に基づいて行動しました。城壁が崩れるまでは、何の変化も見られないばかりか、いつまでも同じ事が繰り返されるように思ったかも知れません。しかし、主は城壁が崩れる七日目を必ず与えてくださることを覚えましょう。主の御心を行って、約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです(ヘブル10:36)。

Ⅲ.主を仰ぎ見る

ヨシュアは、エリコの町を攻略するよう主の命令を受けた時、エリコの城壁や自分たちの力に目を向けたのではありませんでした。主に目を向け、主の御言葉を信頼し聞き従いました。

私たちも、まず主なる神を仰ぎ見なければなりません。もし、私たちが主を仰ぎ望まなければ、見えてくるのは現実の壁と人の限られた能力の壁だけです。ヨシュアは、「私がときの声をあげよと言って、あなたがたに叫ばせる日まで、あなたがたは叫んではいけない。あなたがたの声を聞かせてはいけない。また口からことばを出してはいけない。」(ヨシュア6:10)と民に命じました。否定的な呟きや言葉によって、不信仰な思いに支配されてしまうならば、主の栄光を見ることはできないからです。

私たちは不安になる時、自分の力で何とかしようと慌てて、いろいろな策を講じます。そのような時こそ、「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。」(詩篇46:1)であることを覚え、「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇46:10口語訳)と語られる主を切に求めようではありませんか。父なる神は、私たちがまだ罪人であったときに、御子イエスを私たちの救いのために十字架にかけてくださいました。主イエスの十字架の贖いに、私たちに対する神ご自身の愛が明らかされていることを覚え、主にますます拠り頼みましょう(ローマ5:8)。

結 び

エリコの町の攻略は、人ではなく神によって成し遂げられた「主の戦い」でした。ヨシュアたちは、御言葉の約束を確信して主に従って勝利を頂いたのでした。神の方法は、人の目には愚かに見える方法でした。しかし、神の方法に黙して従う時、主の大いなる御業と勝利をいただくのです。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28

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