『信じて祈り求めるなら』
はじめに
本日より、受難週になります。主のこの地上における生涯の最後に、弟子たちに主を信じて祈り求めるように励まされたことを見てまいります。
Ⅰ.救いの招きを受け入れる備えをせよ
主イエスが十字架の贖いのためにエルサレムに入城された時、群衆は歓喜の叫びをもって主を迎えました(マタイ21:9)。しかし、その叫びは、数日後には主を「十字架につけろ」という叫びに変わりました。人々には、主イエスを迎える姿勢が整っていなかったのです。そのことが、主イエスがいちじくの木に実を捜したけれどもなかった、と言われたことに象徴されています。
このことは、イスラエルの人々だけではなく、今日の私たちにも主が教えていることです。主なる神は、すべての人に罪を悔い改めて主に立ち返ることを求めておられます。それは、命の根源である主から離れていたら、このいちじくの様に実がならないばかりか枯れてしまうからです。主イエスの救いの招きを受け入れましょう。また、受難週に主の救いの恵みと、再び来られる主を迎える信仰を整えさせていただきましょう。
Ⅱ.主は豊かな実を結ばせてくださる
弟子たちは、いちじくの木がたちまち枯れてしまったことに驚きました(マタイ21:20)。主は、いちじくの木の出来事を通して、弟子たちを警告したのではなく「信仰を持ち、疑わない」で生きること、また「信じて祈る」者となることを教え、励まされたのです(マタイ21:21-22)。
主なる神への信仰とは、主に全てを委ねて信頼することです。祈りは、その主への具体的な信頼の現われです。イスラエルが陥った中身の伴わない外見だけの信仰は、まさに口先では神を敬うが、主から遠く離れて主を信頼しない生き方でした(マタイ15:8)。主がエルサレムの宮で見たものは、まさに、いちじくが実を結ぶことなく、葉ばかりが茂っているように、主よりも世や自分を頼みとしている人々の不信仰でした(マタイ21:12-13)。
主は、イスラエルの民が実を結ぶことを望まれましたが、それは私たちクリスチャンにも望んでおられることです。主は言われました、「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です」と。そして、父なる神は、実を結ぶために私たちを整えることを約束しておられます(ヨハネ15:1-2)。葉ばかりが生い茂るのではなく、豊かな実を結ばせてくださる主に信頼しましょう。
Ⅲ.主は不可能を可能にしてくださる
主イエスは、神に信頼し疑いを持たなければ、いちじくの木に起こったことだけではなく、「この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。」(マタイ21:21)と教えられました。主は、御心のままに、主を信じる者たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるお方です(ピリピ2:13)。私たちには不可能なことでも、山が海に入るように、主が御心を成し遂げてくださいます。
人間の救いは、人の力では不可能なことでした。しかし、山に命じるなら海に入るような、あるいは、「らくだが針の穴を通る」(マタイ19:24)ような救いの奇跡が、主イエス・キリストの十字架の贖いによって成し遂げられました。主に「信仰を持ち、疑うことがなければ」、「信じて祈り求めるなら」主の偉大な栄光を見させて頂けるのです。私たちは、主を全く信頼する信仰にとどまり続けましょう。
結 び
主イエスは、この地上での生涯の最後に、主に全く信頼して歩む者の幸いを約束してくださいました。私たちは主に対して、心の底から、主を信じて、疑うことなく従ってまいりましょう。主の偉大な救いのみ業は、もうすでに成し遂げられているのですから。