『もしそうでなくても』
はじめに
本日の聖書箇所から、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人を守られた主なる神は、今の私たちの内にも共におられることをみてまいります。
Ⅰ.生ける真の神を信頼せよ
バビロンの王ネブカデネザルは、大きな金の像を造り、人々にそれを拝むように命じました。しかし、ユダヤからダニエルと共に連れてこられたシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、王の命令であっても断固として金の像を拝むことはしませんでした(出エジプト20:4-5)。
私たちの周囲には、多くの偶像が溢れています。偶像は、形あるものばかりではなく、この世の富や地位、名誉なども偶像になってしまいます。この世のものだけに心が支配されるなら、それは偶像を神としてしまうことです。全ての偶像は、人間が自分たちの必要に応じて都合に合うようにと造ったものですから、これを神とするなら失望におわってしまうのです(詩篇115:4-8)。
世の全てのものは、主が私たちのために与えてくださったものです。頼りにならないこの世の富に望みを置くのではなく、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くようにしましょう(Ⅰテモテ6:17)。
Ⅱ.全てのことを主の御手に委ねる
ネブカデネザル王は、三人に激怒し、偶像を拝まなければ燃えさかる炉の中に投げ込むと告げました。偶像礼拝を命じた王は、自分に全権があるかのように振る舞ったのです。しかし、三人は主なる神こそが絶対主権を持つお方であることを示し(ダニエル3:17)、人ではなく、主を恐れて従うことを示しました。さらには、三人は続けて「もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:18)と主に全てを委ねきる信仰を言い表しました。
三人の信仰は、「もしそうでなくても」という言葉に表されています。主に絶対の信頼を置くとは、自分の願いや思いの通りではなかったとしても、主が御心のままに事を行ってくださることは最善のことであると信じて委ねることです。主イエスはゲツセマネで、「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)と父なる神に語りました。
Ⅲ.世の終わりまで、いつも、共におられる主イエス
三人は衣服を着けたまま縛られて、燃え盛る炉に投げ込まれました。その時、王が見たものは、何の害も受けていない三人と神々の子のような「第四の者」が、火の中を自由に歩いている光景でした。これに驚いた王は、三人が信じる神こそが真の神であることを知って、彼らを炉の中から出すように命じました(ダニエル3:26-28)。
真の神は、燃えさかる炉の中にも来てくださり、焼けつくような試練や困難の中にあっても、私たちに勝利を与えてくださるお方です。偶像は、私たちの身代わりとなって自ら火の中に入ることは決してありません。
主イエス・キリストは、自ら罪人である私たちのもとに来てくださり、私たちを「友」と呼び(ヨハネ15:15)、また、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。「私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知った」(Ⅰコリント8:4)のですから、主キリストと共に歩み続けようではありませんか。
結 び
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、人ではなく主なる真の神を畏れました。それ故に、命をかけて偶像の神を礼拝しませんでした。彼らは、燃え盛る炉の中で神の子のような者と共にあり、火のにおいもしないほどに無傷で守られました。主は今も私たちと共におられます。燃えるような試練や困難の中にも、主は私たちと共におられることを覚えましょう。