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『弱い時にこそ強くされる』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 コロサイ3:1-11

はじめに

本日の聖書箇所から、「わたし(主)の力は、弱さのうちに完全に現れる」という御言葉をみます。

Ⅰ.栄光は主のもの、恥は我がもの

使徒パウロは、自分の特別な体験を二つ語りました(Ⅱコリント12:2-4,9)。彼がこれらのことを語ったのは、コリント教会の人々の中にこれに類する経験をした人たちに大切な真理を知らせるためでした。

コリント教会の人々の中に、超自然的な体験をしたことによって、他者と比べて自分を優れた者として誇る者たちが、教会の中に混乱を起こしていたのでした。人が持っているものは、すべて主から頂いたものです。それは、各々が主から頂いた賜物を、主の様々な恵みの良い管理者として用いて、互いに仕え合うためです(Ⅰペテロ4:10)。

私たちが主を信じて救われたのは、主の「恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。」それは、神からの賜物であり、人の行いによるのではありませんでした。ですから、自分が救われたことをみても、だれも自分を誇ることはできないのです(エペソ2:8-9)。栄光は主のもの、恥は我がものであることを覚え、一切の栄光を主に返し、主の御名を誉めたたえましょう。

Ⅱ.主の懲らしめは私たちを主に近づける

パウロは、人間的な判断力だけで、弱さを誇ると言ったのではありません。彼は祈りの中で、様々な経験を通して、主にあって「弱さを誇る」ことの幸いを知っていたからでした。その一つが、パウロの肉体に与えられた「一つのとげ」でした。

彼は、このとげを去らせてくださるようにと、「三度も主に願いました」(Ⅱコリント12:8)が、取り去られませんでした。彼はとげの痛みを通して、主が語られた「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(Ⅱコリント12:9)との御言葉を頂いたのです。パウロはその伝道の生涯の中で、様々な困難に遭いました(Ⅱコリント11:23-28)。しかし、そこでこそ、彼は信仰によって、人の行き詰まりをチャンスに変えてくださる主の力強いみ業を経験し学んだのでした。

肉の父親が、愛する自分の子たちを懲らしめるように、父なる神もまた、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。その懲らしめは、当初は喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます(ヘブル12:11)。いかなる状況においても、信仰をもって主を仰ぎ望みましょう。主は必ず逃れ道と共に、訓練された信仰者として成長させてくださるのですから。

Ⅲ.弱い時こそ主を呼び求めよ

人の思いを越えた主の恵みは、私たちの弱さや痛みを通して表されます。主イエスはこの地上での歩みの中で、私たちと同じ人となられて、同じ苦しみを負われました(ヘブル5:7-9)。ですから、主は「試みられている者たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブル2:18

主の前にへりくださり、自分の弱さを知る者は、主と共に生きる真の強さを体験させていただけるのです。自分の弱さを知る時、真の強さである主イエスに拠り頼む真実な信仰と服従に生きるのです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

主イエスは、この世の生涯において、弟子たちや群衆が期待する強い王として歩まれたのではなく、弱さを身にまとって人々が蔑む十字架への道を歩まれました。しかし、主が私たちと同じ弱さを身にまとって十字架にかかってくださったことによって、主を信じる者は誰でも救いを頂くことができるようにされたのです。私たちは、主イエスに倣って、弱さがあるままで主に従い、主に仕えて行きましょう。主イエスを信じる信仰こそ、世に勝っているからです(Ⅰヨハネ5:4)。

結 び

主イエスの十字架は、弱い私たちの救いのためでした。主の十字架の贖いによって、私たちは「世に勝つ者と」されました(Ⅰヨハネ5:5)。パウロは、自分の弱さを誇ると宣言しました。それは、主の力は弱さのうちに完全に現れることを体験して知っていたからでした。私たちも、弱さがあるからこそ、高ぶることなく、主によって強くされ、主の力を現すことができることを覚え、主のしもべとして歩んでまいりましょう。

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