『恐れることはない』
はじめに
本日の聖書箇所から、真に恐れるべきは主なる神であることをみてまいります。
Ⅰ.人ではなく神を恐れなさい
主イエスは、まず弟子たちに「パリサイ人のパン種」に注意しなさいと語られました(ルカ12:1)。これはパリサイ人たちの偽善のことで、少量のパン種がパンをふくらませるように、彼らの信仰の偽善が、人々を間違った信仰へと導くことへの警告でした。
パリサイ人たちは、人々からの評価にばかり心を遣っていたために、内実の全く伴わない熱心な宗教者、敬虔な信仰者を演じていたのでした(ルカ11:39-52)。しかし、主を信じ恐れる者は、人からの評価や称賛を求めるのではなく、主が崇められ、誉めたたえられることを願い求めます。
父なる神は、罪深く滅ぼされても当然な私たちを、御子イエスの十字架の贖いによって救ってくださいました。主の十字架は、人には愚かと見えるものでした。しかし、主は人には愚かと見える十字架の救いをあえて用いられたのです(Ⅰコリント1:18)。父なる神の、罪人を赦し救うという熱心さは、御子イエスの十字架に表されました(ヨハネ3:16)。主イエスの十字架に示された神の愛を覚えて、私たちは神の愛に応えて、生きるのも死ぬのも、全てのことを主のためにさせて頂こうではありませんか(ローマ14:8)。
Ⅱ.恐れに打ち勝った者とされている
主は、弟子たちを友と呼んで語られます。それは、「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人」を恐れてはならないこと、恐れるべきは「殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる」主なる神であるということです(ルカ12:4-5)。
私たちは、主イエスを信じているということで、人の評価や世間の目を恐れて信仰を隠そうとする弱さに襲われることがあります。しかし、主イエスを信じて共に歩む時、主は私たちを通して神の栄光と恵みを示してくださいます。主は私たちを「地の塩」、「世界の光」としてくださり(マタイ5:13-14)、「キリストの手紙」(Ⅱコリント3:3)、「キリストのかおり」(Ⅱコリント2:15)としてくださっています。主にある勝利者に相応しい者として、御霊に導かれて歩んでまいりましょう(ローマ8:37)。
Ⅲ.究極的な恐れ(=死)に圧倒的に勝利された主イエス
主イエスは、父なる神は真に信頼すべきお方であるということと同時に、恐れるべきお方であるということを語られました。それは、私たちが多くの恐れに取り囲まれて、恐れに捕らわれ押し潰されたりしているからです。
恐れに捕えられる時、私たちは怯えます。そして、恐れの原因を突き詰めて取り除こうとし、解決策を考えます。しかし、本来恐れるべき方である主なる神を知ることなしに根本的な恐れや不安から解放されることはありません。
主は十字架で、全ての人の救いのために死なれましたが、三日目によみがえってくださいました。私たちの究極的な恐れである死にさえも勝利されたのです(Ⅰコリント15:55)。私たちクリスチャンは、この主イエスの復活の命を頂いたのですから、信仰による勝利者として歩み続けましょう。
結 び
主イエスは十字架の贖いによって、私たちの究極的な恐れである死に圧倒的な勝利をもってよみがえってくださいました。本来恐るべきお方である神を見上げる時、世の恐れは恐れではなくなります。主イエスを信じる信仰によって、勝利者とされたことを覚え、いよいよ主と共に歩みつつ、このキリストを証しして行きましょう。