『嵐を静める主イエス』
はじめに
本日の聖書箇所から、実際に生きて働く信仰に生きるために、御言葉をしっかりと心にたくわえるべきことを見てまいります。
Ⅰ.さあ、向こう岸へ渡ろう
これまで、主イエスは神の国について、たとえを用いて語ってこられました。その後、夕方になって、主は弟子たちに「さあ、向こう岸へ渡ろう」と語られます(マルコ4:35)。弟子たちは、主が語られた言葉に従って、舟を漕ぎ出します。一方、群衆は岸に留まり、それぞれの生活の場へと帰って行きました。
時に、主は御言葉を聞いた人々に、ただちに応答を求められることがあります。弟子は聞いた御言葉によって心動かされ、主イエスと共に新たに「向こう岸へ渡る」という言葉に従って行くのです。「幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです」(ルカ11:28)。聖霊は、私たちに主イエスの御言葉を思い出させ、理解させ、御言葉に伴うしるしと不思議を体験させてくださる幸いへと導いてくださいます。今日というこの日に、主イエスが「さあ、向こう岸へ渡ろう」と声をかけておられるのを聞いたなら、その語りかけに従って行こうではありませんか。
Ⅱ.世の嵐の中を歩むクリスチャン
弟子たちは、主イエスの命じるままに、行き先を知らずに漕ぎ出しました。目的地を決めるのも、「向こう岸」がどんな所なのかを知っているのも、弟子たちではなく主イエスです。しかも、目的地へ着くまでに何が起るのかも、弟子たちには全く知らされていませんでした。
舟を漕ぎ出した弟子たちは、激しい嵐に出会います(マルコ4:37)。彼らは嵐を恐れると同時に、「私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」(マルコ4:38)と、あたかも主が自分たちの状況に気付いていないかのように叫びます。起き上がられた主イエスは、御言葉によって嵐を静めます(マルコ4:39)。
私たちは、毎週の礼拝において、御言葉の恵みと御霊の力に満たされて、それぞれ遣わされている所へと漕ぎ出します。しかし、時には、吹き荒れる突風や大波に翻弄され、舟が沈みそうになります。主イエスは、風や湖も従わせる権威を持っているのです。そればかりではなく、私たちの究極的な恐れである死にさえも勝利されているのです。主イエスがこの世に来られたことによって、神の国、神の統治はすでに始まっています。主は、私たちの舟に乗り込んでくださっているのですから、神の国は、私たちの内にすでにあり、確実に御国へと前進していることを覚えましょう。
Ⅲ.聞いた御言葉を現実とするために
嵐を静められた後、主は弟子たちに「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40)と問われます。主イエスは、神の国の存在を教えるために四つのたとえを語ってくださいました。弟子たちは、御言葉を聞いて理解していたと思っていたのです。しかし、御言葉を理解することと実生活で御言葉を実践することとの間には、大きな隔たりがあったのです。主イエスは、それ故に、「よく聞きなさい」(マルコ4:3,9,23)と語られたのです。
私たちは、御言葉に注意深く聞き、御言葉によって心を悪しき者から守り(箴言4:23)、主が与えて下さる望みに期待しなければなりません(詩篇1:2)。主イエスは私たちの救いが現実であることを示すために、十字架の苦しみを受けてくださいました。主の十字架の贖いの故に、私たちは主の救いのご支配の中にあることを覚えて、如何なる嵐の中であっても歩み続けようではありませんか。
結 び
主イエスは、押し寄せてくるこの世の様々な嵐に翻弄される私たちの舟に、すでに共におられます。主は、私たちがどんなに恐れおののいていても、神の国を実現する救い主として、私たちを救う十字架への歩みを貫いてくださいました。主イエスの十字架の贖いによって、罪と死の力に勝利させて頂いたのですから、聞いた御言葉をしっかりと握って、人生という嵐の中で、主を見上げて歩み続けましょう。