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『さあ目を上げて』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 創世記13:1-18

はじめに

本日の聖書箇所から、信仰をもって現実を見る幸いについて見ます。

Ⅰ.真実の豊かさは主にある

当時、富や長寿は、主からの祝福のしるしとされていました。従って、アブラハム(アブラム)も甥のロトも、主によって祝福されたといえます。しかし、この世の富は、人間を常に幸いにするものではありません。限られた土地に住むアブラハムとロトには、豊かになったがための問題が生じます(創世記13:6-7)。

この世で生きるためには、この世の富や財などは必要です。しかし、あらゆる命の源である創世記造主なる神を信じることに勝る確かで安心なことはありません。聖書は、「たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。」(Ⅰテモテ6:17)と教えています。私たちは、この世の生活において、豊か過ぎて主を忘れることのないために、また、貧しすぎて主の名を汚すことのないように(箴言30:7-9)、「神の国とその義とをまず第一に求め」て歩んで行きましょう。真に私たちを豊かにしてくださるのは、主なる神であることを覚えましょう。

Ⅱ.アブラハムとロトの選択

甥のロトは、アブラハムが主の御言葉に従って故郷のハランを出た時からいつも一緒でした。しかし、二人の歩みは、初めから異なった土台の基に歩む人生でした。そのことは、アブラハムの提案と(創世記13:8-9)、それ対するロトの選択(創世記13:10-11)に表われています。

ロトは自分で目を上げましたが(創世記13:10)、アブラハムは神によって目を上げさせて頂きました(創世記13:14)。神によって目を上げささせて頂く時、自分だけで目を上げた時とは、見えてくるものは違います。自分で目を上げたロトが見たものは、どの地がいかに自分にとって都合が良く、豊かで潤っているかということだけでした。一方、神によって目を上げさせて頂いたアブラハムの目に映ったものは、目には見えなくても確かな神の約束でした(創世記13:14-16)。

目を上げて、主の御言葉の確かさと、祝福の約束を仰ぎ見る、これこそが信仰です。私たちが目を上げて見るべきは、常に御言葉の真実であることを覚えましょう。

Ⅲ.信仰の目をもって見る幸い

主はアブラムに「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい」と語られました(創世記13:14)。私たちが今居る場所で、主の語りかけに応じて目を上げる時、信仰によって見えてくるものがあります。アブラムが肉の目で見たのは、ヨルダン川の西に広がるカナンの山地で、とても肥沃な地とは言えない地でした。しかし、主が「目を上げて見よ」といわれる時、今まで見えなかった創世記造主の豊かな祝福と繁栄を見ることができたのです。それを信仰によって先取りしたアブラハムは、そこに住んで主を礼拝したのです(創世記13:18)。 

私たちは今、それぞれの置かれている現実の中で、目を上げて何を見るのでしょうか。それは、罪人である私たち一人一人のために、十字架にかかって身代わりの死を成し遂げてくださり、復活してくださった主イエスの姿を見るのです。主イエスの十字架の贖いによって、罪を赦された私たちは、キリストにある新しい命に豊かに生きるものとされた自分自身の姿を見るのです。そして、主は「その地を縦と横に歩き回りなさい」(創世記13:17)、すなわち、生きなさいと命じてくださいます。この主の救いの恵みによって、信仰の目をもって全てのことを見上げさせて頂く、幸いな信仰の歩みをさせて頂いていることを覚え、主の御名を誉めたたえましょう。

結 び

信仰によって、主が目を上げて見なさいといわれるものを見る時、今まで見えなかった主なる神の祝福、恵みが見えるのです。アブラハムは、主の言葉に従って目を上げた時、その目に映ったものは、痩せたカナンの山地ではなく、主の確かな約束でした(創世記13:15-17)。主の御言葉に従い、御霊の声に聞き従う時、霊の目でしか見ることのできない主の偉大な栄光があることを覚えましょう。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40

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