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『名が天に記されている』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ルカ10:17-24

はじめに

本日の聖書箇所から、福音を伝えることの恵みと、天に名が記されていることの幸いについてみてまいります。

Ⅰ.福音の恵みに与るために

本日の聖書箇所には、先に派遣された70人の宣教報告が記されています(ルカ10:1)。彼らの報告の中心は、宣教の全体像についてではなく、主イエスの御名を使うと、悪霊どもでさえ自分たちに従ったというものでした(ルカ10:17)。

主イエスは、彼らの喜びの報告を受けて、「喜んではなりません」と語られます(ルカ10:20)。それは、本来の宣教の目的が何であるかを正しく位置づけるためでした。父なる神が主イエスを世に遣わされたのは、罪人が悔い改めて神に立ち返ること、命の根源である主と共に生きるためです(ヨハネ3:16)。

主イエスの救いに与ったクリスチャンは、「世界の光」「地の塩」として、世に遣わされています。主イエスが命じられた大宣教命令(マタイ28:19-20)に加わらせて頂きましょう。キリストの心を自分の心とする時、福音によって神に立ち返る人と共に大きな喜びを頂くことができるのです(ルカ15:10)。福音を伝える一番の喜びは、福音の恵みを頂くことです(Ⅰコリント9:23)。

Ⅱ.主イエスの御名によって

遣わされた70人が、悪霊を従わせて追い出すというわざを行ったのは、神の支配を現す目に見える一つのしるしでした。しかし、彼らが悪霊を従わせることができたのは、自分たちの優れた能力などによるのではなく、主イエスの御名によること、すなわち、主が授けた権威と力によるものでした。

聖書が示す「名前」は、単なる記号ではなく、その名を持つ者自身を表します。クリスチャンは、この主イエスの名前というしるしを身に帯びた者で、聖霊が内におられるのです(Ⅰコリント6:19)。使徒パウロは、「私は、この身に、イエスの焼き印を帯びているのです」(ガラテヤ6:17)と言い表しました。主イエスを信じる者は皆、主の十字架の贖いによって、神のものとされたのです。

主のものとして焼き印を押された私たちは、主の御名を唯一の武器とし、罪の世に対して、悪しき霊に対して勝利を勝ち取ることができるものとされたのです。私たちは、一人で孤軍奮闘するのではなく、主が共にいて戦ってくださるのです。主イエスは、十字架によって、私たちの最大の敵である死にさえ勝利してくださいました。主イエスに全信頼を置いて、全てのことに於いて勝利させて頂き、共に主の御名を誉めたたえさせて頂きましょう。

Ⅲ.名が天に書きしるされている大いなる幸い

主イエスは、私たちが究極的に喜ぶべき事について教えています。それは、私たちの名が天に書きしるされていることです(ルカ10:20)。「名が天に書きしるされている」とは、「神の子」としての身分が与えられていることです。

主イエスは、この大きな喜びの故に、聖霊に満たされて、私たちの喜びをご自分の喜びとして喜んで、父なる神をほめたたえられました。その喜びは、多くの預言者や王たちが見たい、聞きたいと切に願ったことであったと語られるほどのものなのです(ルカ10:24)。私たちは、主イエスを信じる信仰によって、この世の知恵ある者、賢い者には隠されている大きな喜び、幸いを見ることを許されていることを主に感謝しましょう。そして、この喜びは何ものによっても奪われたり、消し去られたりすることはないことを覚え、主イエスを信じる信仰に堅く立たせて頂きましょう(ローマ8:35-37)。

結 び

父なる神は、御子イエスの十字架の贖いによって、私たちの全ての罪を赦してくださいました。さらには、私たちの名を天の命の書に記してくださっています。この大きな喜びの故に、狼の中に送り込まれた小羊のように(ルカ10:2)弱く無力な私たちであっても、主イエスによって遣わされていることを信じて、主の御名を帯びて福音を伝えて行くことができることを覚えましょう(ヨハネ16:33)。

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