『平和を告げ知らせる』
はじめに
本日の聖書箇所から、主にある平和を告げ知らせる者の幸いについて見てまいります。
Ⅰ.罪の奴隷状態から解放された者として
預言者イザヤは、イスラエルの民がバビロン捕囚から解放されることを語りました。主は、民に、解放された者らしく「ちりを払い落として立ち上がり」、「首からかせをほどけ」と命じられます(イザヤ52:1-2)。この時、民はまだバビロンに居て、しばらくはそこで住まなければならない状況でした。しかし、主は民が信仰によって主の御言葉を受け入れ、それに伴う行動をするようにと告げられたのです。信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものですから(ヘブル11:1)、行いが伴うのです(ヤコブ2:17)。
このことは、今日の私たちも同じです。私たちは、主イエスを信じる以前は罪の奴隷でした。しかし、救い主イエスの十字架の贖いによって、罪の「ちりを払い落として」いただき、「かせをほどかれ」て救われたのです。主の救いをいただき、自由とされたのですから、キリストにあるものとして歩ませて頂きましょう(エペソ4:22-24)。
Ⅱ.平和の王、イエス・キリスト
イザヤが民に語った良き知らせとは、「あなたの神が王となる」ということ、そして、主がシオンに帰って来られるということでした(イザヤ52:7-8)。主が王として統治される所、そこには真の平和と救いがあります。また、主がシオンに帰られると、廃墟となったエルサレムが立て直されます。主は、バビロン捕囚となっていたイスラエルを慰め、民の都エルサレムを贖ってくださるのです。
神のひとり子である主イエス・キリストは、真の王として私たちの所に来てくださいました。主の救いに与る以前の私たちは、自分自身が王であり神で、「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」でした(エペソ2:1)。しかし、救い主イエスを自分の心の王座に迎えた時、私たちは罪の奴隷状態から解放されます。そして、父なる神との豊かな命に生きる交わりに入れられ、平和と喜びに満たされた人生を歩むことができるようにしていただきました。
教会と私たちクリスチャンは、この主との豊かな交わりに生きる者とされました。さらには、使命をも与えられています。それは、この良き知らせである主イエスと主の十字架の贖いを伝え、真の平和はイエス・キリストにあることを宣べ伝えることです(エペソ2:14)。
Ⅲ.救いに応える主に喜ばれる歩み
イスラエルは、主の一方的な恵みによって救われました。民は、「美しい衣」を着せられ、「その足には美しい」平和の福音の備えをはかせて頂いたのです。そのような民に、主は、主の器をになう者に相応しく身をきよめ、いっさいの不信仰や汚れから離れるように命令されました(イザヤ52:11)。しかし、出エジプトの時のように「あわてて出なくてもよい」と主は言われます。なぜなら、救いを完成し民を導かれる主は、ご自身が民の前に進み、しんがりとなってくださるからです(イザヤ52:12)。
主イエスは、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。主がいつも私たちと共にいて、私たちの前を進み、しんがりとなってくださいます。私たちは主の力強い御手に導かれていることに、全信頼を置いて従って行きましょう。慌てることなく、私たちを贖ってくださった主の恵みに感謝して、いつまでも罪の中にとどまっているのではなく、バビロンから去らなければなりません。主によって、義の衣を着せて頂き、足には福音の備えをはいたのですから(ガラテヤ3:27、コロサイ3:10)、主イエスの血潮と聖霊によって日々きよめられつつ、救ってくださった主に喜ばれる歩みをさせて頂きましょう。
結 び
主の一方的な恵みによって、イスラエルは罪を赦され、国を復興する約束を頂きました。主の約束を信仰によって頂く時、主にある真の平和と救いを頂くことができます。また、この主の平和と救いを主イエスを信じる信仰によって頂いた私たちは、主の救いの恵みを告げ知らせるという使命を頂いています。主の栄光を現す者として呼ばれたことを感謝しつつ、主の栄光を現すために教会の使命を成し遂げさせて頂きましょう。