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『十字架を負う幸い』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ8:34-38

はじめに

本日の聖書箇所から、キリストを信じて生きる者の姿を見てまいります。

Ⅰ.神のことを思う

主イエスは、弟子のペテロの「あなたは、キリストです」という告白を受けて、キリストの苦難と死、そして復活のことについて弟子たちに明かされました(マルコ8:29-31)。それを聞いたペテロは、自分たちの考えるキリストの姿とは全く違っているので、主をわきにお連れして、いさめたのです(マルコ8:32)。主は、その様なペテロを「下がれ。サタン。」と言って、厳しく叱りました(マルコ8:38)。

ペテロの問題は、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことでした。「神のこと」とは、神が御言葉において語っておられることであり、「人のこと」とは、人が誰でも見て善いと思える、人の規準を基にしていることです。

ペテロが主イエスをいさめた思いの中には、人の思いとして当然といえる「自分たちの師が、殺されてはならない」という思いがあったことでしょう。しかし、人にとって最善と見えることが、時として主のみ心に敵対する悪魔の策略になってしまうことがあることを聖書は教えています。私たちは常に、主のみ心を知るために、人の情や考えをわきに置いて、御言葉を土台として、聖霊に導かれて、主のみ心は何かを見極めさせて頂くことが大切です。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12

Ⅱ.主イエスの後に従う

主はペテロに、「下がれ」と言われました。これは「私の後ろに行け」という意味で、ペテロが本来いるべき位置を示されたのです。それは、主イエスに従う弟子として、本来のあるべき姿を教えられたのです。すなわち、キリストの弟子とは、主イエスの後ろにいて、その背中を見ながら従って行く者のことです。

私たちは信仰生活を送る中で、また、信仰の先輩たちから様々な経験を聞くことで、ある程度、神について、信仰生活について分かったと思います。確かに、主を信じる時、主イエスを知り、救いの恵みが分かるということは大切です。しかし、人から伝え聞いて「分かる」ことが信仰のすべてなのではありません。信仰とは、主ご自身との関係において、霊の目を開いて頂き、主から教えて頂き続けることです。

私たちの主は、生きておられます。ですから、主はいつも一人ひとりを覚えて、常にその人に必要な取り扱いをもって導いてくださいます。また、主は御言葉と御霊によって私たちに語りかけ、恵みをもって信仰を成長させてくださいます。主イエスの御言葉に聞き、主により頼んで歩まさせて頂こうではありませんか。

Ⅲ.自分の十字架を負って

主は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と語られました。これは、主の後に従う全ての者に語られた教えです。 自分を捨て、自分の十字架を負うとは、自分の思いや願いを優先させるのではなく、主が自分に求めておられることを行うことです。

十字架には、苦しみや苦痛が伴います。しかし、御言葉ですからと十字架を担う時、「わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」(マルコ8:35)と主が言われた約束に従って、永遠の命の希望を持って、御国を目指して人生の歩みをさせて頂くのです。主イエスの復活がそのしるしです。

結 び

主イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われました。これは、キリストに従う全ての者に語られたことです。この御言葉は、一見、苦痛や重荷を負うように見えるでしょう。しかし、これは福音です。なぜなら、主イエスに従うことによってのみ、永遠の命に与ることができるからです。主イエスと共に、永遠の命を待ち望みつつ歩んでまいりましょう。

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