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『キリストに従う心』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ8:18-27

はじめに

本日の聖書箇所から、主イエスに従う者の生き方、弟子たる者の道について見てまいります。

Ⅰ.主イエスに従うとは

主は自分の所に集まって来た人々に、ガリラヤ湖の向こう岸に行く用意を命じられました(マタイ8:18)。これは、主イエスに従うために、自分の住み慣れた地を出て、主と共に航海する船に乗るということを意味しています。主は、ご自身の招きに応える者を募られたのです。

主イエスに従うとは、主イエスの弟子になるということです。弟子とは、ただイエスに教わる人というだけではなく、実際に、主イエスに従って共に歩む者のことです。

最初の弟子ペテロとアンデレは、主イエスに呼ばれた時、すぐに網を捨てて従いました。ヤコブとヨハネも、すぐに舟も父も残して主に従いました(マタイ4:19-22)。主イエスに従って行くとは、待ったなしです。一見、よく考えもしないで主に従ったように見えた弟子たちでしたが、主が呼ばれた以上、彼らは主によって整えられ、練達した主の働き人として用いられました。私たちも「向こう岸へ行こう」と、主によって呼び集められたことを覚え、主の御声に従ってまいりましょう。

Ⅱ.主イエスの招きにただちに応えよ

主の招きの言葉に、ひとりの律法学者が「どこにでもついてまいります」と応えます(マタイ8:19)。この律法学者は、主イエスに倣うなら、自分を信仰的に向上させ、生活を保証する人生に導いてくださると考えたことでしょう。しかし、主は狐や鳥のたとえをもって、主に従う者は天の御国を目指して歩む者であり、この地上では寄留者であると語り、彼の思い違いを示されました(マタイ8:20)。

もうひとりの別の弟子は、主に従う前に「まず行って、私の父を葬ることを許してください」と願います(マタイ8:21)。当時は、父を葬るとは、父が亡くなるまで世話をするということも意味しました。主は、様々な理由があったとしても、条件が整ってから従うというのではなく、主に呼ばれた時こそ従うべき時であることを教えられました。主の招きに応えて従う時、主は道を一つ一つと開いてくださり、いっさいの備えを用意してくださいます。

Ⅲ.私たちと共におられる主イエス

舟に乗った弟子たちは、様々な覚悟をし、多くの犠牲を払って主に従って行きました。その後、湖上で大暴風に遭って、波にのまれて溺れそうになります。しかし、主イエスは、自分たちが生きるか死ぬかという大変な時に、眠っておられたのです(マタイ8:24)。主が大暴風の中で眠っておられたのは、父なる神の守りと導きに身を委ね、父なる神が必ず共にいて守り支えてくださることを信頼しきっていたからです。

現代の私たちクリスチャンの歩みにも、時として激しい嵐が襲ってくることがあります。しかし、弟子たちの舟に主がおられたように、いかなる困難の中であっても、主イエスは私たちと共にいてくださるのです。それが見えなくなってしまっているというのが、「信仰の薄さ」なのです(マタイ8:26)。 

主は、弟子たちの「主よ。助けてください。」という叫びを無視されませんでした。主は、弟子たちの信仰の弱さをご存じの上で、権威ある御言葉をもって嵐を静めてくださいました(マタイ8:25-26)。私たちの罪の身代わりとして、十字架にかかってくださった主イエスは、罪と死に勝利し、よみがえられ、今、私たちと共に歩んでくださる生ける神です。いつも聖霊によって、主の臨在の内を歩み、主の権威ある御言葉に聞き従ってまいりましょう。

結 び

主イエスは、私に従って来なさいと声をかけてくださっています。それは、私たちの救いは主イエスによる以外にないからです(使徒4:12)。また、私たちの目指すべき所は、永遠の都である天の御国です。主は私たちに信仰を与え、御国に着くまで、この世で嵐や困難が襲ってきても信仰の歩みを導き、支えてくださることを覚え、主の御声と御霊に従ってまいりまよう。「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル4:7

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