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『キリストを宣べ伝える』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ピリピ1:12-21

はじめに

本日の聖書箇所から、いかなる時にも、キリストを宣べ伝えることの大切さと幸いについて見てまいります。

Ⅰ.主は、全てのことを働かせて益としてくださる

ピリピ人への手紙は、獄中書簡と言われるものですが、「喜びの手紙」とも言われます。パウロは獄中から、「兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたい」(ピリピ1:12)と、励ましています。それは、いかなる状況にあっても、主はその働きを成し続けておられることを知っていたからです(ピリピ1:6)。

パウロは、自分に起こっている全ての事柄は、主の許しと御手の中にあるという確信をもっていました。人間的に見るならば、全く喜べない困難な状況でも、主は様々な事を通して、善いわざを進めてくださいます。ここに、主を信じる者とそうでない者との決定的な違いがあります。キリスト者の歩みは、主が始めて、主が完成してくださることを信じるものです。また、主は、主に信頼する者たちに、考えも思いもしない方法で、偉大な祝福を与えてくださいます。なぜなら、主は、神を愛する者たちのために、全てのことを働かせて益としてくださるからです(ローマ8:28)。

Ⅱ.主は人を用いてみわざをなされる

パウロの投獄によって、教会はこれまで以上に福音を宣べ伝えました(ピリピ1:13-14)。しかし、この宣教の熱心さには、「ねたみや争いをもって」宣べ伝える者と「善意をもってする者」とがありました(ピリピ1:15)。パウロは主の御言葉が伝えられることにおいて、人間的に見た時に、不純な動機であっても、それによって自分が苦しめられることになっても、そこで結果としてキリストが宣べ伝えられているのであれば、それを喜ぶと言いました(ピリピ1:18)。それは、宣教は主が罪人である私たちクリスチャンを用いて、主が成される主のわざだからです。

宣教をはじめとして、様々な主の奉仕のわざは主の愛に応答し、それぞれの賜物を用いることによって行うものであり、それは当然「善意」からするもので、「ねたみや争いをもって」行うものではありません。しかし、教会のわざは、あくまでも弱さや欠けのある私たちを用いて、主なる神が進めておられることです。全ての善きことを完成してくださるのは主なる神であるということに信頼して行きましょう。

Ⅲ.キリストを精一杯宣べ伝えよう

パウロは、主が一切のことを支配し、導き、御心を成し遂げてくださるとの、まったき信頼がありました。それは、彼が主イエスの姿を見ていたからです。主イエスは、人の罪のために十字架で身代わりとなって死んでくださいました。それは、人の目には、愚かで、苦しみと恥辱の極みでしかありませんでした。しかし、罪人の救いは十字架による以外にはなかったのです。

主イエスは、まだ罪人であった者たちのために、十字架の苦しみを受けてくださいました。主は神の御子であるにも関わらず、ご自分を無にして、私たちと同じ人となってくださり、十字架の死にまでも従われました(ピリピ2:6-8)。主イエスの救いを頂いた私たちは、罪に死んでこの主イエスの救いにあずかることによって、主イエスをよみがえらせた新しい命にあずかって生かされています。

父なる神の御心は、主イエスを救い主として信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つことです(ヨハネ3:16)。主は今に至るまで、そして、これからも、救いの御手を差し伸べ、救いのわざのために先に救われた私たちを用いようとされています。キリストの心を自分の心として、主の福音を宣べ伝えて行こうではありませんか。人を救うのは私たち人間のわざではなく、主のわざです。私たちは、主イエスのもとに隣人を導くために、精一杯のことをさせて頂こうではありませんか。

結 び

私たちの信仰生活には、人間的には喜ぶことのできないこと、納得のいかないことがあります。しかし、全ては主の許しの中にあり、主は全てのことを益としてくださることを覚えましょう。主のみわざは、主が進めてくださるということ、そして、私たちは主に委ねられたところで、できる精一杯のことをもって福音を伝えましょう。

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