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『主イエスの言葉を信じて』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ヨハネ4:43-54

はじめに

本日の聖書箇所から、しるしと不思議を見なくても、主イエスの言葉を信じる信仰の大切さを見てまいります。

Ⅰ.しるしや不思議によらず主を信じる

ひとりの王室の役人が、病気のため死にかかっている息子のいやしを求めて、主イエスのもとにやって来ました。主イエスは、「あなたがたは、しるしと不思議を見ないかぎり、決して信じない。」(ヨハネ4:48)と告げられます。役人は、遠いとことから主イエスに会うために来たのですから、主イエスの偉大な力を信じていたことでしょう。しかし、この役人は自分の考える通りの救いを求めて主のもとに来たのです(ヨハネ4:49)。

主イエスは、そのような父親に対して、彼の信仰を引き出すために、「しるしと不思議」を求めて信じるのではなく、結果を見ていなくても主なる神を信じる真の信仰を問われたのです。それは、神に近づく者にとって、信仰が最も重要だからです(ヘブル11:6)。

主を信じるとは、現実の状況を十分踏まえた上で、なお、主に信頼し期待することです。出エジプトにおいて、イスラエルの民は40年間、主のみ業を見ながらも、主を試みてしるしを求め続けました(ヘブル3:8-10)。しるしを求めた民は、周囲の状況に左右され、常に不安や恐れに振り回されました。私たちはいかなる時も、主に信頼し続け、主が求める者に与えてくださる答えは最善であることを確信して主を待ち望もうではありませんか。

Ⅱ.御言葉だから信じる

「主よ。どうか私の子どもが死なないうちに下って来てください。」(ヨハネ4:49)と叫び、自分の思いに拘っていた父親に対して、主イエスは語られます。「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」(ヨハネ4:50)父親はその主イエスの言葉を信じて、帰途につきました。

主の御言葉を聞いた時、父親の信仰は引き上げられたのです。すなわち、自分が思い描いた通りの答えを主に期待するのではなく、主の御心に自分の思いを重ね合わせていくという信仰です。それは、言い換えるなら、自分の思い描いたようなしるしや不思議を見たら信じるというものから、見なくても主御自身を信じ委ねる信仰に変えられたのです。

息子がいやされるというしるしを見ないままに、父親は主が与えてくださった御言葉の確かさにだけ信頼して帰って行きました。帰る途中に、彼のしもべたちに出会い、息子が主イエスが御言葉を語ってくださった時にいやされたことを知ります。そればかりではなく、彼自身と彼の家の者がみな主を信じたのです(ヨハネ4:51-53)。御言葉にはしるしや奇跡が伴いますが、どこまでも御言葉に対する信仰が先です。御言葉だから信頼するという成熟した信仰へと導かれようではありませんか。

Ⅲ.御言葉と聖霊に導かれる信仰

現代の私たちは、この王室の役人のように、主イエスと顔と顔を合わせて会うことはできません。しかし、主イエスの霊である聖霊は、信じる者と共に居てくださいます。聖霊は御言葉を思い起こさせ、御言葉への確信を与えてくださるのです。

私たちは、御言葉によって主イエスを示して頂き、信仰を成長させ、成熟させていただくのです。御言葉に根ざすなら、私たちの心は目に見えることで、不安や恐れに振り回されてしまうことはありません。御言葉と聖霊に導かれる信仰は、確信を通して大いなる平安をもたらします。私たちは「お言葉ですから」と、主に信頼する時、主の偉大な栄光を見させて頂くのです。

結び

私たちは、主の日毎に集まり、主を霊とまことをもって礼拝します。御言葉を通して、主から新たな力と祝福を頂いた後、それぞれの家路につきます。私たちが家路につく時、この父親のように、「イエスが言われたことばを信じて、帰途に」つくなら、必ず主の偉大な恵みの業を与えてくださることを覚えましょう。御言葉と御霊は、私たちの信仰を引き出してくださいます。また、御言葉を聞いて従う時、主なる神との豊かな交わりの中に生きる者とされることを感謝しようではありませんか。

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