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『望みを抱く信仰』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ローマ4:13-25

はじめに

本日の聖書箇所から、望みえないときに望みを抱いて信じたアブラハムの信仰を見てまいります。

Ⅰ.信仰によって世界の相続人とされる

アブラハムは、主の一方的な恵みによって選ばれ、地上のすべての民の祝福の基とされました(創世記17:4-5)。このことは、彼が律法の要求を満たしたからではなく、信仰による義に基づくことでした。

アブラハムを「あらゆる国の人々の父とする」という、主の偉大な恵みには、信仰によってしか応えることはできません。アブラハムは、現実を直視しつつ、人間的には絶望しかないことを認めた上で、「望みえないときに望みを抱いて信じました」(ローマ4:18)。このようなアブラハムの信仰に倣う者は、神の約束に与る者とされるのです(ローマ4:23-24)。

現在の私たちは、主イエスを死者の中から復活させた方を信じるなら、義と認められます。主イエスは、私たちの罪のために十字架に死なれ、主を救い主として受け入れる全ての者を義とされるために復活されました(ローマ4:23-25)。主イエスを救い主として信じることによって、私たちは罪の滅びから救われるのです。ハレルヤ!

Ⅱ.アブラハムの信仰に倣う

アブラハムは、自分も妻も高齢であるにも関わらず、子どもを与えるという主の約束を信じました。一般的には、私たちが希望を抱く時、状況に左右されてしまうことが殆どでしょう。しかし、彼らは、主の御言葉に従いました。真の希望は、この世の状況に左右されるものではなく、神への信仰から来るものです(ローマ8:24)。神からくる希望の根拠は、神の御言葉です。

さらに、アブラハムは、神から自分の子イサクを捧げるように命じられて従いました。人間的には、神の御言葉に従うなら、イサクを通して与えられる神の約束は無効となってしまいます。しかし、彼は、息子を捧げても、神は無から有を生み出し、また、死者をよみがえらせる偉大なお方であると信じたのです(ローマ4:17)。御言葉を信じるとは、常識の延長ではなく、神の御言葉だからと全く信頼し、従うことです。私たちも、「おことばですから」と、御言葉に従いましょう。主の御言葉を信じ従う時、人の思いや計画を遙かに超えた主の御業を成し遂げてくださることを覚え、いっさいのことを主に委ねて行こうではありませんか。

Ⅲ.主イエスを信じる信仰によって義とされる

アブラハムの信仰は、主に、息子イサクの誕生に関わるものでした。彼は、死んだも同然の自分たち夫婦から、神の御言葉によってイサクが与えられると告げられた時、その御言葉を信じました。しかし、彼らは神の前でひれ伏しながらも心の内でイサクが与えられるということについて密かに笑ったのです(創世記17:17、18:12)。しかし、神はそのような彼らであっても、約束の御言葉を語り続けられました。神は、御言葉をもって彼らの信仰を支え、その人生を導きました。

現代の私たちの信仰は、主イエス・キリストの十字架の死と復活に関わっています。私たちもまた、現実を直視するなら絶望しかないこともあるでしょう。しかし、私たちが神の前に義とされるための全ては、すでに主イエスの十字架と復活において完成されています。さらに、聖霊は、主を信じる者を主イエスと同じ姿に変え、御国を受け継ぐことの保証となってくださいました(エペソ1:14)。永遠の都を目指して、主に望みを抱いて歩んでまいりましょう。

結び

アブラハムは、現実を直視した時、望みを持てる状況ではありませんでした。しかし、彼はそのような時に信仰が弱ったのではなく、かえって主の御言葉を信じて主に望みを抱きました。アブラハムのように、私たちも周囲の状況に左右されずに、御言葉に聞き従い、御霊に導いて頂こうではありませんか。主の御言葉をしっかりと握り、主に信頼して望みを持って進んで行きましょう。

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