『救い主が来られる』
はじめに
本日はアドベント(待降節)第二週です。本日の聖書箇所から、イスラエルの民が、救い主の到来を待ち望んだように、私たちも主の再臨に備えるべきことを見てまいります。
Ⅰ.救い主の到来を待ち望む
この箇所は、救い主の到来によって、捕囚の民が救われて故郷に帰って来ることを喜ぶ歌です。民は、この救い主の到来を切に待ち望みました。主が来られて、その栄光と力をもって地を支配し、救いが完成する「そのとき」(イザヤ35:5,6)、人々は罪の苦しみから解放され喜びに満たされます。そして、その喜びは人だけではなく、自然界にも及ぶことが記されています。その喜びは、救い主イエス・キリストの第一の到来、すなわち、主イエスの御降誕によって実現しました。
主イエスの十字架の贖いによって救いを頂いた私たちは、主の再臨の時、朽ちることのない栄光のからだを与えられ、いつまでも主と共にいるようにして頂くのです(Iテサロニケ4:15-17)。私たちが主の御降誕を喜び祝う時、それは主イエスの第二の到来である「再臨」を待ち望むことでもあることを覚えましょう。
Ⅱ.主を待ち望み、強く、雄々しくあれ
私たちは今なお、荒野、砂漠のようなこの世の現実の中にあって、主イエスが救い主として世に来てくださった第一の到来の恵みを受けています。主は、私たちの全ての罪を背負って、十字架で身代わりに死んでくださいました。主は死後三日目に復活してくださり、罪の赦しの恵みと新しい永遠の命を与えてくだいました。この主イエスは私たちの救いを完成してくださる第二の到来を約束してくださいました。
再臨の約束の故に、主が語られた「強くあれ。恐れるな。」という御言葉で、私たちはこの世にあって主を待ち望み、主と共に歩み続けることができるのです(イザヤ35:3-4)。主がいつも共に居てくださることを覚えて、さまざな困難や圧迫などに直面しても、主が弱った手を強め、よろめくひざをしっかりとさせ、力を与えてくださることを覚えましょう。今、弱って、心騒いでいるなら、主イエス・キリストを仰ぎ望もうではありませんか(詩篇146:5)。
Ⅲ.主イエスの再臨を待ち望め
罪のこの世は、荒野や砂漠のようで、そこには道がありません。道がないので、人はつまづき、迷い、ついには命を失ってしまうのです。主はそのような私たちを憐れみ、荒野に道を造られ、砂漠に水を湧き上がらせ、川が流れるようにしてくださいます。主が造られる道は「大路」であり、「聖なる道」と呼ばれます。主に贖われた者たちはだれでも、その大路を通ることができるのです。
この「聖なる道」とは、イエス・キリストのことです。主は、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と語られます。神のもとに行くための道は一つ、イエス・キリストであることを覚えましょう。
主に贖われた者には、悲しみと嘆きは逃げ去り、永遠の喜びをいただいて楽しむことが約束されています。また、この大路である主イエスと共に歩む者は、たとえ「涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所と」(詩篇84:6)されるのです。主イエスは、もう一度私たちのところに来てくださいます。そのことを覚えて、クリスマスに備えると共に、主イエスの第二の到来、再臨に備えて行きましょう。
結び
イスラエルの民は、救い主の到来を待ち望み、信仰を持ってその日に備えました。その喜びの約束が実現したのが、神の御子が人となられて、この世に生まれてくださった第一の到来です。主イエスの十字架によって、全ての人が信仰によって救われる道が完成されました。主の十字架の贖いによって救いを頂いた私たちは、主の第二の到来、再臨を待ち望む者とされています。アドベントのこの時期、私たちは再び来られる主イエスを備えつつ待ち望んでまいりましょう。